第3章予言
A,合理的な証明
  もし我々は目をつむり一四○○年前に我々が生きていたと想像するならば、我々は今の世界の混乱と転倒の様相を全く待たない、現代とは完全に異った世界を見出したであろう。その時代には何と思想の交流の機会が無かったことか!何と伝達の手段が制限され未発達だったことか!何と人間の知識は卑少で貧弱であったことか!何と人間の見識は狭かったことか!何と人間は迷信と不毛の悪ずれした考え方に包まれていたことであろうか!
 暗黒が支配していた。人間の知識をほとんど照さないような一条の学問の光があるにすぎなかった。無線もなければ電話もなく勿論テレビジョンも映画もなかった。鉄道や自動車は夢にも考えられず、印刷機や出版技術は知られていなかった。手写しの写本と写本を作る人だけが極く僅かの書きものを提供し、その書さものは世代から世代へと受け継がれていった。教育は極く恵まれた者だけの贅沢三昧を意味し教育施設は全くないといってよかった。
 人間の知識の量は少く、人間の見識は狭く、人間と物事に関する考え方は制限された環境にとじこめられていた。当時の学者さえある点では今日の一般人よりも知識が乏しく、最も文化の高い人でも今日の普通の人間よりも洗練されていなかった。実際に人間性は無知と迷信にはいりこんでいた。学問の光はあることにはあったが、いたるところにはぴこっている暗黒に対して敗け戦をしつづけているようであった。今日では常識的な事柄も当時に於ては何年間も考察され忍耐強く審査された後ですら、ほとんど受け入れられることがなかった。現代の学問の時代には人々は万人の遺産である知識を獲得するために、危検な旅をし、全生涯を費す必要はない。今日では「神話」とか「迷信」に類する物事がその当時では疑いのない真理であった。現代では我々が極悪で野蛮と見なす行為が当時の「秩序」であった。現代の道徳感では耐えられないことがその時代の道徳の精神であり、自分達の生き方とは異る生き方があるとは当時はほとんと想像することもできなかったのである。不信と懐疑がそれほと大きくそんなに広範囲に広まっていたから、当時の人々は超自然的で、異常で、神秘的で、信じられないような装いをまとわなければ、物事を深遠て崇高なものと考えようとはしなかった。人々は人類が神のような魂を持ち、人間が聖人になるこどは想像することもできなかったほどに劣等感をはぴこらせていた。

 

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