第3章預言
1、預言者−−その性質と必要性
 あなたがたは神が慈愛を垂れてこの宇宙で人間が必要とする一切のものを人間に授け給うたことを知っている。生れたてのどの赤ん坊も物を見るための目、問くための耳、臭を映ぎ息をするための鼻、触れろための手、歩くための足、考えるための心を授けられてこの世に出てくる。人間が必要とするあらゆる潜在力、能力、機能は細心の考慮を払って与えられ驚くべき精巧さでちっぼけな身体の中に組み入れられている。微小なあらゆる必要物も予知されて与えられている。人間が必要とするものは一つも洩れなく与えられているのである。

 同じことは、人間が住んでいる世界についてもいえる。人間の生存に不可欠なあらゆるもの−−空気、光、熱、水などは豊富に地球にある。幼児は目を開けるやいなや母親の胸の中に生命の糧を見出す。両親は子供の面倒を見、すくすくと成長させ、子供の幸福のためには自分の一切を犠牲にしようという抗し難い衝動が植えつけられている。このような生存の組織の保護の下に、子供は成長し人生のあらゆる段階で必要とする一切のものを自然から得る。生存と成長のためのあらゆる物質的条件は与えられており、我々は全宇宙が人間に奉仕しあらゆる局面で人間に役立っていることを知るのである。
 更に人間は生存競争に必要なあらゆるカと能力と機能−−肉体的にも精神的にも道徳的にも−−に恵まれている。ここでも神は素晴しい配慮を示し給うた。神はこれらの「恵み」を厳密に平等には与え給わなかった。神の「恵み」が平等であるならば人間は全く相互に依頼し合わなくなり、お互の気づかいと協力の可能性が損なわれるであろう。このように人類全体としては人類が必要とするあらゆるものを持っているが、しかし人間の間では天賦の能力は平等にかつ十二分に分配されていない。ある者は強い肉体と力を待ち、ある者は知的な才能が秀いでている。ある者は美術の偉大な才能を持って生れたが、ある者は雄弁の才能を持ち、またある者は鋭い軍事的能力を持ち、更には商業に長ける者、数学の天才、科学への情熱、文学鑑賞、哲学的傾向を持つ者等……数えればきりがない。これらの特別の才能を持つために人間は個性があり、他の人が埋解できないような複雑込み入った事をも捕えることが出来るのである。これらの洞察力、傾向、才能は神の贈物である。それらは神が、しかじかの特性を授けようと思召し給われた人間の性質の中に具体化されている。それらの才能は大部分生れながらのものであり、単に教育や訓練によっては得ることができない。
 この神の贈物に対する配慮を注意深く観察してみると、その才能が驚くほとうまく人間に分配されているということがまた明らかになる。人間の文化を保つために一般に不可欠なこれらの才能は普通の人間に与えられているが、ある限られた程度のみ要求される特殊な才能は少数の人間だけに与えられている。兵士、農民、職人、労働者の数は多い。しかし将軍、学者、政治家、知識人は比較的小数である。同じことは、あらゆる職業、芸術、文化事業についてもいえよう。高い能力と偉大な天才であればあるほど、それを持つ人間の数が少いことは一般的に妥当である。人間の歴史に不朽の足跡を残しその影響が何世紀間も人類を導くような超天才はほとんどなく極めて稀である。その天才を持つ人にいたってはさらに少ない。
 ここで我々はもう一つの問題に直面する。人間の文化が絶対的に要求するのは、法律と政治、科学と数学、技術と機械学、財政と経済等々の分野のエキスパートと専門家だけてあろうか。それとも人間の文化は「正しい道」−−神と救いへの道−−を人類に教える人間の出現をもまた要求するのであろうか。その道の権威者達はこの世のあらゆる知識とそれを利用する方法と手段を我々に提供するが、しかし創造の目的と人生そのものの意味を我々に教える人がいなくてはならない。人間とは何か、また何故に人間は生れてきたのか。誰が人間にあらゆる能力と資源を与えたのか、また何故に与えたのか。人生の正しい目的とは何であり、いかにしてその目的を成就しすべきか。人生の正しい価値とは何てあり、いかにしてその価値に達することができるのか。これらは人間の最も知りたいと念願する事柄でありこれらを知らなければ人間は健全なる基礎の上に文化の殿堂を築くことはできないし、また現世に於ても来世に於ても成功することはむづかしい。しかし必要とする最も些細なものまで人間に授けられた神が、人間の最も大きな高い最も本質的なこの要求を知り給わない筈がない。否、断じてそんなことはありえない。事実またそうでない。神は芸術と学間に非凡な人間を創られたがその人が神を知り理解するように深い洞察力と純粋な直感力と最高の能力を与え給うたのである。その人々に、神御自身が信心と敬虔と正義の道を啓示し給うた。神は人生の目的と道徳の価値をその人々に教え給い、その啓示を人類に伝え人類に正しい道を示す義務を託された。その人々こそ預言者であり神の便者である。
 預言者は特別の才能と生れつきの精神的傾向と謙虚で意義深い生活とによってこの世に高くそぴえ立つ人である。預言者は芸術や学問上の天才達と同じように稀有な能力と生れつぎの天才のために英姿は颯爽としている。天才的な人間は人を感服させる風格を持ち、人をして直ちに天才であることを認め、納得させる何ものかがある。例えぱ天性の詩人の詩に接すると、我々は直ちに彼が非常な天才であることを認める。もし生れながらの才能を持たない人が文芸て一家をなそうとして最大の努力をしたところで其の成功は期し得ないだろう。同じことは生れながらの雄弁家、著作家、指導者、発明家についてもいえる。このような天才はすべて素晴しい能力と驚くべき業績によって卓説し、他の人々の追従を許さない。予言者についても全く同じことがいえる。予言者の心は他の人々の心でけ捕捉出来ない問題を捕える。予言者は他の人の論ずることができない物事を論じ新しい光を投げつける。何年間も深く思索し嗅想しても誰一人として理解することが出来なかった微妙で複雑な問題を予言者は看破する。理性も予言者の説くところを承認し、心もその真理を直感する。日常の出来事の経験とこの世の様相の観察から見ても、予言者の目から出るあらゆる言葉は真実であることは明らかである。しかし我々自身が同じ事や類似の事をしようとしても結局失敗以外の何物でもない。予言者の気質は非常に善良で純枠であるから、あらゆる面に於てその本質は真実で、率直に、高貴である。予言者は決して不正を言ったり為したりしないし、またどんな悪事をも犯さない。予言者は非常に善行と正義を鼓吹し、他の人々に説教することを自から実践する。予言者のいかなる行為も彼の生活が彼の信仰告白と一致していることを示している。予言者の言葉も行為もいかなる個人的利益によって動かされない。予言者は他人の幸福のために苦しみ、自分の名誉のためには決して他人をわずらわせない。予言者の全生涯、全生活は真実と高貴と純枠と高尚なる思索の典型的なものであり、人間性の最も高揚した形である。預言者の人格は非の打ちどころがなく、いくらあらを探そうと頑張ってみても彼の生活には一個の欠点も見出せないであろう。
 これらすべての事実とこれらすべての品格は彼が正真正銘の神の予言者であり、我々は彼を信じなければならないという結論に到達する。このような人が神の本当の予言者であることが明らかにわかれぱ、我々の当然なすべき次のことは予言者の言葉を受け入れ、その教えに耳を傾けその言う所に従うことである。逆に予言者の言に従わないことは神に従わないことになる−そして神への不従順は我々を滅亡と堕落に導く以外の何物でもない。それ故、予言者を容認すること自体がその教えを崇めることを義務付けさせ、絶対に異議をはさむことなく教えを愛け入れさせるのである。あなたがたはもろもろの命令の叡智と有為性を十分に把握することはでさないかもしれないがその教えが予言者から出た限りそれが真理であることを十分に保証し、疑惑の余地はありえない。あなたがたが理解できないからといって真理が欠点や誤りを持っているのだということにはならない。普通の人の理解力には限界があり、その限界は決して無視することはできない。ある分野の技能を知らない人はそれの精巧優秀さを完全に理解できないことは明らかである。しかしそういう人が彼自身その道の専門家をよく知らないからという理由だけで専門家の言うことに反駁するのは馬鹿げている。この世のある重要な事柄において専門家の助言を求める場合あなたがたはその専門家を信頼して依頼する。自分の判断と解釈を捨て、専門家に心より従うであろう。普通の人間はこの世のありとあらゆる学問や技能を修得することはできるものではない。そこで一般の人にとって正しい道は自分でできることは自分でなし、できないことは、自分を導き助けてくれるにふさわしい人を見つけるのに知恵と頭悩を働かし、そのような人を見出したならば彼の助言を受けいれ彼に従うことである。この人が自分の目的に最も有益で最上な人間だと確信するならぱ、その人に助言と指導を懇願し心からその人を信頼することである。その人のやることに何でも干渉し、”先に進む前にもっとわかりやすく理解させて下さい”などと言うことは明らかに愚かなことである。法律上の事件で弁護士に依頼する時は、あなたがたは弁護士のやる事なす事に一つ一つ千渉しない。むしろ弁護士を信頼し彼の忠告に従うだろう。医者の許に治療しに行くならば医著の指示に従うだろう。医学上の事柄に出しゃぱることもしないし、論理上では自分の方が勝っているからというので医者と議論をすることもしないであろう。これは人生の正しい態度である。同じことを宗教に於てもしなければならないあなたがたは神を知りたいと念願している。神の嘉みし給うところに従った生き方を知りたいと念願している。だがあなたがたはこれを知る手段を持たない。それ故、神の本当の予言者を探すことがあなたがたの義務になる。予言者を探すにはあなたがたの最大の苦心と洞察力と知恵が動員されなけれぱならない。というのはもし予言者に悪い人間を選ぶならば、悪への道に陥いってしまうからである。しかしもしあらゆる事情を正しく照合し、考察して、この人こそ本当に神の予言者だと決めるならば、あなたがたは心から彼を信頼し彼のあらゆる教えに忠実に従わねばならない。
 今や、人間の正しい道は予言者が示す道、しかもそれのみであり、人間の正しい生ぎ方は予言者が神から聞いて我々に教える生き方のみであるということが明白になった。このことから我々は、予言者を信じ予言者に従うことはあらゆる人間に絶対必要であり、予言者の教えと予言者そのものを無視する者は自から墓穴を掘って正しい道から逸脱し必ず迷路に入り込む者であることが容易に理解できよう。
 この点で我々は寄妙な誤解を演じやすい。予言者の完全さと真実さを認めても、予言者を敬愛する心掛けなくまた自分の処世上の都合で予言者に従わない人々がいる。このような人々はカーフィル(不信仰著、背教徒)であるのみでなくまた不自然な愚かしい行き方をしているのである。何故ならば、予言者を認めていながら予言者の云う所に従わないこどは、まさしく自ら己れの心を裏切り故意に不真実を求めていることにほかならないからである。世にこれよりも愚かなことがあるだろうか!「我々は予言者の導きなど必要としない。我々自身で真理への道を見出すことがでぎる。」と言う人々がいる。これもまた誤った散慢な考え方である。あなたがたは幾何学を学んだならば、二点の間にはただ一つの直線だけがありその他のあらゆる直線はその点からはずれその点を通らないということを知っているにちがいない。イスラームの用語でスィラートル・ムスタキーム(真っ直ぐな道)と呼ばれる真理への道についても全く両様である。この道は人間から始まり真っ直ぐ神に通じ、そしてこの道は明らかに一つのみであり一つてなげればならない。その他のあらゆる道は外れ道であリ迷路に通ずる。今や予言者によって真っ直ぐ道が伝えられた。その道以外に真っ直ぐな道はないしありえないのてある。その道を無視し他の方向を求める者はただ自らの想像、幻影のとりこにすぎない。彼はある道を選ぴそれが正しいと想像するが、まもなく自分が罠にかかリ自分の想像が作り出した嘘八百と迷路に陥っていることがわかるだろう。道に迷っているとき、親切な人が正しい道を教えているのに、「あんたなんかの指図を受けないし道なんか教えて貰いたくもない。未知な所だけども自分で手探り道を探すし、好きなように目的地に達するさ。」と言って、親切な人の指図をさっはり無視するような人間をあなたがたは考えることがでぎるだろうか。予言者の明瞭な指導かあるのに、このように拒否をするならぱ、全く愚劣の極みである。出発点から再ぴ出なおそうとするならば、それは時間と精力の大浪費であるだろう。我々はこんな無駄なことを科学や学問の分野ては決してしない。しかるに何故宗教に於ては敢てそうするのか。
 これはよくある過ちであるが少し考えて見ればその欠陥と弱点がすぐわかる。しかしこのことを少し立入って考えるならば、あなたがたは本当の予言者を信ずることを拒絶する者は神に至る真っ直ぐないかなる道も絶対に見出すことはできないことがわかるであろう。その理由は、真実な人間の忠告を信じようとしない者はひねくれた態度を取るから真理への道は彼から離れ、彼は自らの頑固、傲慢、偏見、曲解のとりことなるからである。またこの拒絶はしばしば、偽りの傲慢、盲目の保守主義、先祖代々の生き方に対する頑強な執着、自分自身の卑小な希望のとりこのために生じ、予言者の教えに服従することを不可能にさせる。もし我々が今述ぺた事態に堕するならば、真理への道は閉ざされる。世のすね者のように物事を真実の曇りない観点から見ることはできなくなるのである。そうなれぱ救いの道を見出すことはできない。これに反し、我々が誠実で真埋を愛し、上述の事態にとらわれていないならば、真実への道は常に我々に開かれ、予言者を信じようとしない理由は絶対にない。否、予言者の教えの中に我々の魂の反影そのものを見出し、予言者を発見することによって我々

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