スーフィーの物語
イドリース・シャー(Idries Shah)編著、美沢真之助訳



過去一千年以上にあたって記録されてきた、スーフィーの導師や諸教団の教えが、この本には収められている。

これらの物語は、ペルシャ、アラビア、トルコをはじめとする、さまざまな国の古典文学や伝統的な教えの書、さらには現在でもスーフィー教団で用いられている口頭伝承から集められたものである。

したがって、ここには精神的な修行のために用いられている素材もあれば、過去の偉大なスーフィーたちに霊感を与えた重要な文学作品からの引用も含まれている。

スーフィーは常に彼ら自身の内的な判断に基づいて、その教えの素材を選んできた。歴史的、文学的、あるいはその他のいかなる基準も、選択のさいの重要な要因とはならない。

スーフィーには、聴衆や地域の文化、教えの内容などに応じて、彼らが受け継いできた他に例を見ないほど豊かな伝承の中から、適切な話を選んで用いる伝統がある。

スーフィーの修行場では、弟子は導師から与えられた物語に心を集中し、弟子の理解が一定の段階に達したと判断されると、導師はその物語に秘められているさらに深遠な意味の次元へ弟子を導いてゆく。

しかし、その一方でスーフィーの物語は、民族や道徳的な教えにその姿を変えたり、伝記の中に紛れ込んだりもしている。それらは、さまざまな意味のレベルに対応しており、娯楽的な価値もまた否定できない。



犬と棒とスーフィー
引用:31-32頁



スーフィーの衣服を着て道を歩いていた男が、とつぜん棒で犬を叩いた。犬はあまりの痛さに大声をあげ、偉大な賢者であるアブー・サイードのところへ逃げていった。犬は賢者の前にひれ伏し、傷ついた脚を見せながら、自分にこのようなひどい仕打ちをしたスーフィーを罰してくれるように訴えた。

賢者はそのスーフィーを呼んで叱った。

「この、ふとどき者め!無知な動物の行ないに対して、よくもこのようなひどい仕打ちができたものだ。自分の犯した過ちを見よ!」

しかし、とスーフィーは答えた。「これは私に罪があるのではなく、犬のほうが悪いのです。私は気紛れで打ったのではありません。この犬が私の聖なる服を汚したからなのです。」

これに対して、犬も自分の主張を訴えた。

奴方の話を聞き終えたとき、その公正さにおいて比するべき者のない指導者、アブー・サイードは犬にこう言った。「神の審判が下される前に、おまえの痛みに対して、私が代償を与えてやろう。おまえの望みを言いなさい。」

「偉大な賢者さま!わたしはこの男がスーフィーの衣服を着ていたので、危害を加えられることはないだろうと、うっかりしていたのです。この男が普通の服を着ていたなら、わたしは彼を避けていたでしょう。わたしが犯した過ちは、真実を知る者の外見を目にしただけで、自分は安全だと思い込んでしまったことなのです。この男を罰していただけるのであれば、選ばれた正しい者の徴(しるし)である衣服をこの男から取り上げてください。」

この犬自身、道のある段階に達していた。この犬が人間よりも劣っていると考えるのは間違いである。


この物語の中でダルヴィーシュの衣服によって象徴されている「条件反射」について、数多くの神秘主義者や宗教家たちが、しばしば真の体験や価値に関係があると誤って解釈してきた。アッタールの「聖なる書(イラーヒー・ナーマ)」から採られたこの物語は、マラーマティー・ダルヴィーシュによって繰り返し語られてきたものであり、九世紀のハムドゥーン・アルカッサールの作であるとされている。


死ぬ前に死ぬ
引用:318-320頁



ブハーラーの街に、とてつもない大金持ちの慈善家が住んでいた。彼は不可視のヒエラルキーの非常に高い地位に就いていたので、世界の指導者と呼ばれていた。彼は毎日、病人や未亡人といった特定の人たちを選んで金を施していたが、そのさいにたったひとつだけ条件をつけていた。自ら進んで口を開いた者には何も与えなかったのである。

しかし、すべての者が黙っていられるわけではなかった。

ある日、公証人たちにその施しを受ける順番が回ってきたとき、その中の一人が自分を抑えることができずに、できるかぎりの完壁な訴えを行なったのだった。

しかし、彼には何も与えられなかった。

公証人はさらに努力を続けた。翌日は病人が施しを受ける日だったので、彼は手足が折れているふりをして出かけていった。

ところが、指導者に顔を覚えられていたので、彼は何ももらえなかった。

さらにその次の日も、彼は顔を覆って変装し、ほかの人たちの中に紛れ込んだ。しかし、またしても見破られてしまい、その場から追い払われたのであった。

その後も公証人は何度も何度も、ときには女の格好さえして努力したが、結果はいつも同じであった。

彼はとうとう最後に、自分を死者の布にくるんでくれと、葬儀屋に頼んだ。世界の指導者がここを通ってゆくとき、私のことを死体だと思って、埋葬のための金を投げてくれるかもしれない。うまくいったら、あなたにも分け前をあげよう、と彼は葬儀屋に約束した。

葬儀屋は言われたとおりにした。そしてこんどは本当に、指導者の手からその布の上に、金貨が投げられたのであった。葬儀屋が先に取ってしまうのを恐れた公証人は、すぐにその金貨を掴み、慈善家に向かってこう言った。「あなたは私への施しを拒んだ。しかし、私はついにそれを手に入れたのだ」

慈善家は答えた。「あなたは、死なないかぎり、私から何も取ることができない。それこそ、〈死ぬ前に死ぬ〉という神秘的な諺の意味である。真の恵みは人の死後にくるものであり、死の前にくるものではない。そして、その死ですら、人の助けなしに不可能なのだ」


この物語はルーミーの「精神的マスナヴィー」の第四章に収められている。ずる賢い者もある種の恩恵を手にすることができる。しかもその「金貨」は、ブハーラーのこの慈善家のような、偉大な師から得た場合には、見た目よりもはるかに大きな力を持っており、それがとらえどころのない「バラカ(神の恵み)」の不思議な性質であるという考えを強調するために、ダルヴィーシュたちはよくこの物語を用いる。


スーフィーの物語」、イドリース・シャー(Idries Shah)著、美沢真之助訳
東京:平河出版社、1996年, ISBN: 4-89203-271-9、定価1800円
英語の原文:"Tales of the Dervishes"

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