「緑の書」・女性

ムアンマル・アル・カッザーフィ著
藤田進訳


男も女もともに人間であることは、まぎれもない事実である。したがって、人間として男女が平等なことも、自明である。男女を人間の資格において区別するのは、弁護の余地もなく、極度に抑圧的な行為である。女性も男性同様、飲食し、恋をし、好嫌の感情をもつ。女性も考え、学び、理解し、また住居や衣服や乗りものを必要とする。空腹や渇きをおぼえ、生きそして死ぬ点でも、まったく男性と変わりがない、しかしなぜ男と女がいるのだろうか。確かに人間社会は男女双方がいて成り立っており、男女がいるのが普通の状態である。なぜ男性あるいは女性のみが創造されるということはなかったのか。結局のところ、男性と女性の違いは何なのか。なぜ男性女性双方を創造する必要があったのか。男女いずれか一方だけでなく、双方が存在することは、明らかにその必然性があったのだ。すなわち、双方はたがいに異なっているからである。男と女とが創造され、それぞれが存花していることは、男と女とが生まれつき違っていることを示している。双方は当然、それぞれの役割を担っているはずである、したがって、男女それぞれが生きて独白の役割をはたすための条件も、異なるのである。双 方の役割を理解するためには、男女の特性の相違を、つまり両者の生米の相違を理解しなければならない。



女性は文字通り女性であり、男性は男性である。婦人科医の説明によれば、女性は、その特性のために無月必ず生理を経験して体調をくるわせる。男性には、男性であるがゆえに生理はなく、録月決まって寝こむということはない。毎月周期的に訪れるその症状は、出血である。女性は女性であるがゆえに、自然の摂理として毎月の出血をみるのである。女性が出血をみないとき、それは妊娠したためであり、妊娠するとやく一年にわたり女性は弱々しくなる。つまり、出産のときまで女性固有の活動はすべて制限されるのである。出産や流産にあたっては、女性はそうしたときにつきものの産褥に苦しむ。男性は妊娠しないので、女性が女性であるゆえに経験する苦しみとは無縁である。女性は、生まれた子供を母乳で育てる。育児はやく二年間続く。母乳で子供を養う場合、子供にとって措親が非常に必要なため、女性は活動をいちじるしく制限されることとなる。これは女性が、子供に対して直接的に責任をはたしていることである。男性は妊娠もしなければ母乳で育てることもできず、子供が生きるのに不可欠な生物学的機能をはたすのを女性が助けているのである。



以上の固有の特性が男女の相違をもたらしているのであり、このような相違によって、男女平等ということはありえない。相違それ自体が、男女双方の存在の必然性を示している、男女は、相互に異なる生活のなかで、それぞれの役割ないし機能をもっているのだ。男性にはけっして女性の代行はっとまらず、男性が女性のかわりに女性特有の仕事をはたすことはできない。生物学的な役割か重い負担となって、女性に大変な努力と苦痛とを与えている点は、注目に値する。しかも女性のはたすこの仕事は、それを欠くと人間の生命が断絶してしまうという先天的な仕事であり、意志の力や強制力でおこないうるようなものではない。それはまさしく、他の唯一の選択が人間の生命の断絶でしかないというような、重大な仕事なのである。



妊娠を意図的に阻止するということが見受けられるが、これは人間の生命を断つか否かの選択をしているのである。また、妊娠や母乳による育児を、意志によって部分的に制約する場合もある。そうしたことはすべて、生命を冒涜する行為につらなっており、殺人にも値する。妊娠、分娩、母乳による育児などをさけるために女性が自殺するのは、それらに具体化された自然の摂理に、程度の差こそあれ意図的に反する行為であるに違いない。託児所は、母性にあらわされる女性の先天的役割を損い、母親の代役をするが、それは、人間社会を廃止し、人間社会を人工的生活様式による生物社会へと変質させる手始めである。子供を母親から隔離し、託児所につめこむのは、子供をあたかもブロイラーの鶏のように扱うことだ。というのは、託児所は、孵化した鶏がつめこまれる養鶏場に似ているからである。この場合、先天的な母性のほかに、人間の特質やその尊厳になじむものはないのである。だから、子供は養鶏場のような場所で育てられるのではなく、本物の母性愛、父権、兄弟愛が息づいている家族のなかで、母親の手によって育てられるべきである。動物王国の他のいろいろな動物と同様、鶏に しても、養鶏所で育てられるのは不自然なことなのだ。鶏の肉まで、自然の肉というより人工の肉に似てくる。機械化された養鶏所で生産される鶏肉は、鶏の育成が人工的で、本当。の母性愛に守られて育つということがないため、まずいうえに、栄養の点でも劣っている。野性の鳥の肉がもっとおいしく栄養に寓んでいるのは、それが自然のなかで育ち、天然の餌を食べているからである。家族もなく家もない子供に対しては、社会がその保護者であるが、託児所のような施設は、こうした子供たちのためにだけ限られるべきだ。



子供が普通、母親と託児所のどちらを選ぶかという実験をしてみれば、子供の選ぶのは母親であって託児所ではないことが分かる。子供が母親を選ぶのは当り前のことである以上、子供を保育するうえでもっとも自然で適切な存在は、母親なのだ。母親のかわりをつとめる託児所に子供を預けるのは、子供の自然の意志に反する強制である。



あらゆる生物にとって、自然の成長こそ、自由かつ健全な成長の姿というべきものだ。託児所が母親代りをつとめるのは、自由で健全な成長に反する強制行為である。子供たちは、無理矢理、あるいはだまされたり、あるいは何も分からないまま、託児所に追いやられるのである。彼らを託児所に追いやるのは、純粋に物質的。非社会的判断によってである。もし強制とか子供につきものの無分別とかが取り除かれるなら、子供は明らかに託児所を拒否し、母親にとりすがるであろう。しかし、託児所に子供を預けるという不自然で非人間的な過程がひきおこされるのは、そもそも女性が、女性の特質にそぐわない環境のもとで、非社会的で反母性的な仕事をしなければならないといった現実があるからであろう。女性は、女性独内の役割を適確にはたせるような立場におかれるべきである。



母親の愛情を注ぐのが女性の役割であるから、子供を母親から隔離するのは不自然である。母親が母性たることを放棄するのは、人生において女性がはたすべき固有の役割を捨てることである。母親には母親としての権利が保証されなければな、七ない。そしてまた、強制や圧迫から自由で、しかも女性にふさわしい環境が保証されなければならない。自然状態(ズルーフ・タビーイー)のなかでこそ、女性はその固有の役割をはたすことができるのだ。強制や圧迫による不自然な状態のもとでは、女性は、妊娠し母親となるというその固有の役割を放棄せざるをえないことになる。それは彼女が強制と独裁の犠牲にされたことを物語るのだ。女性が女性固有の役割を犠牲にするような仕事を求めるのは、自由意志によってではなく、必要にせまられて余儀なくそうしているにすぎない。なぜなら、必要のなかに自由は潜んでいるからである。女性が男性にはできないその固有の役割をはたすための必要条件のうちには、妊娠によって肉体的なハンディキャップを負うという条件も含まれる。母親になりつつある女性に対して無理な肉体労働を課するのは、正当ではない。それは、母性と人道にそむいたとい うかどで女性を罰し、男の領分に介入したといって女性にその償いを支払わせる、ということにほかならない。



女性自身も含めて一般の人びとは、女性がみずからすすんで肉体労働をするのだと考えているが、実はそうではない。物質主義に毒された冷酷な社会が、いつのまにかそうせざるをえない環境に女性を置いたのである。女性は、自分では自発的に働いているつもりでも、社会が課する諸条件に従うしかないので、そうしているのだ。さらに、男女はあらゆる面で平等であるという原則が、女性の自由を奪うことにもなっている。



「あらゆる面で」という表現は、女性にとっては、大きなまやかしである。それは、女性が女性固有の役割を担うべき特権をもっていることを無視し、その特権の必要条件を損うからである。



妊娠中の女性が重い荷物を運ぶのを見て男女平等を唱えたり、乳飲み子をかかえた女性に男女平等だからといって断食、苦行を実践させようとしたりするのは、不当であるばかりか、残酷である。女性の美しさを損い、女性らしさを奪うような汚札仕事について、男女平等を要求するのも、同様である。女性がその特性にそぐわない仕事につくように仕向ける教育もまた、不当であり、かつ残酷である。



人間性にかかわることがらについては、男女はまったく平等である、男女とも自分の意志に反して結婚したり、公正な裁判を経ずに離婚したりすることは許されず、また離婚が認定されていない限り再婚はできない。家の主は女性である。それは、生理や妊娠を経験し、子供の面倒をみる女性にとっては、家が必要条件のひとつだからである。女性は、母性を保護する場所である家の主人なのである。人間世界とはいろいろな点で異なるところがあるにせよ、母性の役割がひとしく自然の摂理にもとづいている動物王国では、子を母から引き離したり、雌をその棲み家から追いだしたりするのは、明らかに暴力的行為なのである。女性は女性以外の何ものでもない。男性とは異なる女性の生物学的特性が、外面的にも、内面的にも、男性とは異なる特徴を女性に与えているのである。これはまさしく自明の事実である、動物界でも、薙はおのずと強くたくましい資質をもつのに対して、雌は美しくやさしい資質をもつ。これらは人間、動物、植物のいかんを問わず、不変の天性というべきものである。



自然の摂理にもとづく男性の特質として、男性は強くたくましく振舞うが、それは強制されでではなく、先天的におのずとそのように振舞うことになっているだけのことである、女性が美しくやさしいのは、彼女がそうしたいと欲するからではなく、本来そのような資質をもっているからであるにすぎない。このような自然の摂理が正当なのは、ひとつには、それがあくまで自然だからであり、またひとつには、それが自由の基本法則にかなっているからである。すべての生物は自由な存在として創造されているのであり、いかなる形であれ、自由を妨げることは強制を意味する。自然の定めた役割を担おうとせず、またそれに無関心でいることは、生命の価値を無視し、あるいは破壊する行為である。自然は、現在から将来への変化をはっきりと見定めることができるような生命現象の必然性にもとづいて、つくられている。生物とは、死ぬまで不可避的に生きる存在である。誕生から死までのあいだ生存するということは、自然の法則に合致しており、これには選択も強制も関係がない。それは自然そのものなのである。それは自然的自由である。動植物の世界でも、人間の世界でも、誕生から死にいた るまでのあいだの生命現象には、かならず男性と女性の存在がともなっている。男性と女性とは、単に存在すればよいというだけではない。それぞれが創造さ机るさいに予定された自然の役割を完壁にはたさなけれぱならないのである。それぞれの役割が十分に発揮さ机ない場合には、かならず、ある状況下で、生命現象に何らかの欠陥が生じることになる。こんにち、世界のほとんどあらゆる社会で、男女の役割の混同、すなわち女性を男性につくりかえようとする努力が見られるが、それはまさしく、上にのべたような欠陥が生じるケースを示すものである。男女はそれぞれの特性や目標に従って、自分の役割というものに創造的にとりくむべきだ。その逆をいこうとすることは退行的な企てである。それは自然に逆らうことであるばかりか、自由の原則を損い、また生命のためにも生存のためにも有害なものである。たとい、部分的に役割を放棄するにしても、それは不自由で不自然なことには変わりない。健康がすぐれないためや、仕事をもっているために、女性は結婚や、妊娠や、母親としての役割をあきらめたり、化粧さえできないでいたりする。また、具体的な理由もなしに、女性が妊娠、結婚、母 性といった女性の固有の役割を拒絶する場合も、不自由な状況にやはり彼女はしばられているのである。女性がみずからの固有の役割をはたそうとするのを妨げられたり、また、権利の平等を口実に女性が男の仕事を強制されたりするのは、物質主義に毒された社会の諸条件が作用しているからである。これら諸条件を根絶すべく、全世界的な革命が必要とされている。特に工業化した社会では、『緑の書』のような革命の起爆剤がなくとも、生存本能につき動かされて革命は必然的に起きるであろう。



現代のいずれの社会でも、女性は単に商品級いをされている。東洋では女性は売買の対象とされているし、西洋でも女性の特質が尊重されるということはない。



女性が男の仕事にかりたてられるとき、不当にも女性の資質までも損われてしま、つ。女性は、みずからの固有な役割を担うためにこそ、その資質を生まれつき備えているのである。男の仕事は、女性の美しさを損う。女性の美しさは、本来、女性固有の役割をはたすために必要とされるのだ。その意味で、女性の美しさは、花に似ている。花は花粉をつけ、実を結ぶために必要なものである。もし花を取り除けば、生きるために植物が担う役割も失われてしまうのである。自然の定めた究極的目標に到達するための必要条件として、蝶や鳥やその他すべての動物の雌は、美しい容姿を先天的にさずかっているのである。女性が男の仕事をするということは、女性に固有の役割も、その資質である美しさも失って男性につくり変えられることなのだ。男に変えられたり、女性の資質を失うのを余儀なくされることなく、女性は、みずからの本来の姿で生きる権利を十分に保証されてしかるべきなのである。



そもそも男女は肉体構造上たがいに異なっており、内面的にも、外見的にも、当然違っている。女性は、物静かで、愛らしく、また容易に涙ぐんだり驚いたりする、といった特徴をもっている。一般的にいって、女性は生来おとなしく、男性はたくましいものである。



こうした男女間の先天的な相違を無視して、両者のそれぞれに固有な役割を混同しようとするのは、野蛮な態度である。そればかりか、それは自然の法則に違反することであり、人間の生命を破壊することにもなる。そうした行為こそが、人類の社会的生活にとって真に危機的要因となるのである。



近代工業化社会は、男性の場合と同じ肉体的条件の仕事をしだいに女性に任せるようになってきた。ところが、このことにより女性は、美しさ、気立てのやさしさ、母性といった女性に固有な資質やみずからの役割を奪われていかざるをえなかったのである。このような事態をもたらした社会は、文化的社会などと呼ばれるにふさわしくない。それは、物質主義に毒された野蛮な社会に他ならないのである。このような社会を手本にするのは、愚かしいことであるばかりか、そのことにより文明的危機さえもたらされかねない。



しかしそれだからといって、女性は働くべきか否か、などということを問題にするとすれば、それ自体が物質主義に毒された馬鹿げたことである。社会が仕事を人びとに与えるときは、単に男女の違いを問題にするのではなく、仕事に対する能力と必要性とを備えている人びとに与えるべきなのである。その際、不向きな仕事を押しつけられることなく、適材適所の仕事につくように、人ひとは配慮されるべきである。



子供がおとなの労働条件のもとに置かれているのは不当であり、独裁的なことである。女性が男性の労働条件のもとに置かれている場合も、同様である。



適任な仕事にとって必要な知識を自分の思い通りに修得しうるような教育の機会が何びとにとっても保証されているとすれば、これこそが自由が実翼している姿であろう。自分にそぐわないばかりか、学習の結果不向きな仕事につくような羽目に陥りかねない教育体制のもとに人びとが置かれているとすれば、それは文字通り独裁である、また、男性に適する仕事が、必ずしも女性に向くわけではなく、また、子供に適切な知識はおとなにそぐわないのである。人権をめぐって、男と女、およびおとなと子供はまったく平等である。しかしそれだからといって、それぞれのはたす役割の内容がまったく同じでなけれぱならないということにはならないのである。





書名
著者
出版社
出版年
定価
緑の書=アル・キターブ・アル・アフダル
ISBN: 480748608X
ムアンマル・アル・カッザーフィ著
藤田進訳
東京・第三書館 1993 1200


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