第八章
大正デモクラシー時代


小村不仁男著



日本イスラムの幕開け

大正二年(一九二三)、国内では川崎の日本書昔器商会の争議や東京のモスリン工場で女工四千名が労働条件改善を叫んでストライキをおこした。一方、閏秀作家平塚らいちょうが「新しい女」を中央公論に発表してたびたび当局から発禁をくらう青踏社を開いた。中国では孫文が広東独立に失敗して台湾に亡命した。また西北回教軍閥のはしり馬安良、馬福神将軍らが宗社党の領袖升允を支援してこれに協力活動した。日本の工藤鉄忠らもその一人である。



欧州ではブルガリアがセルビア、ギリシャを攻撃し、ルーマニアはブルガリアに宣戦して第二次バルカン戦争が勃発、「ヨーロッパの活火山バルカン半島」一帯は物情騒然となっていた。大正三年(一九一四)、大正時代といえば読者は誰でも大正デモクラシーと第一次世界大戦の勃発した時代であるという先入感というか印象が強いであろう。その大戦が勃発したのがこの大正三年の七月で日本も日英同盟のよしみ対独宣戦を布告して連合国側の一国として参戦した。参戦したとはいっても陸軍は中国山東省にあるドイツ軍の基地を攻略したのと、海軍は赤道以北のドイツ領南洋諸島を占領しただけであった。



何の被害も犠牲もなく逆に「濡れ手に粟(あわ)」式でヨーロッパ交戦諸国が欠乏して困っている船舶の供給と輸送によって莫大な巨利を獲得してにわか成金がそこここぐ続出するという好況時代を招来して、いわゆる漁夫の利を独占した様相を呈した点が昭和時代の第二次世界大戦と極端な対照的戦争であった。



このとき巨万の財をなした実業家の中には山下汽船の社長山下亀三郎のように昭和時代にはいってから東京モスク創建に多大の貢献をした財界人もいたが、大半はその反動で没落した。また第一次、第二次軍縮時代到来の先触れとなり帝国軍人がもっとも低姿勢となった時代のはじまりで、かの日清、日露の両戦役の頃や昭和の十五年戦争時代のような軍国主義時代武家政治時代では想像もできぬ軍人全般の低落低調時代を現出するそもそも第一年であった。



しかしまたその一面この大戦に日本から観戦武官としてヨーロッパ戦線を祝祭した軍人の中にはたとえば後に大日本回教機会長となった四三天延孝中将(当時中佐)のようにパレスチナ帰属問題をめぐるユダヤ・イスラム両民族研究の権威となった将軍もあらわれるに至った。



大正四年(一九一五)、同山こと佐藤甫が長嶺亀助中佐(のち少将)に随行して東西卜ルキスタンの境界すなわち中国とロシアの国境線にある新疆省のイリ(現伊寧)まで旅行した。佐藤はそれから三年間その他に滞留しつつ現地の踏査に専従した。



この年の十月二十四日中東アラブ方面ではフセイン・マクマホン協定が締結されてアラブ地域の独立が宣言せられた。国内では、内藤智秀が「カイゼルと回教徒」を論考のテーマにして「歴史地理」の第二十巻方六号に掲載した。



大正五年(一九二六)、田中途平は再度訪中して上海で孫文、王統一ら革命派志士と会見後揚子江中流地域を巡遊した。



また、バルカン半島方面視察からいったん帰国した山岡光太郎は再び外遊の途についた。今度は方向一転して太平洋を東へ渡りラテン・アメリカ(中南米)方面である。



明治三十九年中震国境のイリまで日野強少佐について赴いた上原名市はこの年九月に没したが享年まだ三十四才の昔であった。



隣邦では内蒙古にいたパプチヤップ将軍らか張作霖と衝突、満家独立運動の火の手を揚げ宗社党を支援したが、在満馬賊の大頭目立憲章(かって日清戦役のときの清軍のムスリム猛将左宝貴がこれに参画協力した。ちなみに、パプチヤップ将軍は張作霖軍の攻撃にあい壮烈な戦死をとげてこの内蒙独立運動はすべて水泡に帰した。



大正六年(一九一七)内藤智秀らが発起人の一人となってこの年七月「バビロン学会」を設立した。この会は今の「古代オソエント学会」の前身ともいうべき会である。また九月には同じく東京に「モリソン文庫」(のちの東洋文庫)が開設され、ようやくこの方面における研究分野の曙光がきざしはじめた。この「モリソン文庫」は、オーストラリアのジヤーナリストであるモリソンが収集したアジア関係の図書二万五千冊を中心に、三菱の岩崎久弥が家宝とする岩崎文庫の文献数千冊を併せて設立したものでのちの「東洋文庫」として有名である。



この年はサラセン文様とリズム文様が流行した。また文豪徳富慮花夫妻が第二次エジプト訪問を行った。



大正七年(一九一八)、中央アジア探査で名を揚げた井上雄二の後輩にあたりシンガポール方面で活躍していた瀬川亀が南洋協会より「回教」を出版した。またこの年は少壮学者時代の内藤智秀が最も多く著作を世に間うた一時期で、特にバルカン半島問題や新興トルコ共和国の民族間題をテーマに採りあげて執筆、発表した。



他方、揚子江源流探検の途次、河南省周家口を訪問し、はからずも回教に開眼した三田下一はいよいよ真剣にイスラームの神髄に肉迫するようになる。



また東京外語ロシア語専科を卒業した須田正継は「シベリア出兵」に陸軍ロシア語通訳官として従軍、ザバイカル方面に赴き、トルコ・タタール系ムスリムに多数接触してイスラームにアプローチ始める転機となった。かくてこの大正七年こそは中国回教の三田、ロシア・イスラームの須田という昭和十年代に大活躍する双峰の素地を、初めて形成した年として日本イスラーム史上特記せねばならぬ年であった。



大正八年(一九一九)、継屯(のち陸軍少将)が新疆省の政府主席揚増新に招かれて軍事顧間に就任し現地に向った。これは前年五月に日本と中国の間に「日中陸軍共同防敵軍事協定」が調印された結果、日本軍人が自由に中国の西北辺境である東トルキスタン地方まで旅行できるようになったからである。



海外ではドイツ皇帝カイゼルとオーストリアのカール帝が退位し、連合国との間に休戦条約を締結(十一月)した。ここに四年振りに平和を回復し、第一次世界大戦は終りを告げた。またアラビア半島の西南角にあるイエメン王国が独立を宣言した。



世界大戦は終結したが朝鮮では京城(ソウル)はじめ全鮮各地で日韓合併に反対する独立宣言やデモ行進があり(三二運動)、中国では日本側の要求した山東半島利権問題で「国辱」と叫んで北京その他各地で学生の反日排貨デモがあった、(五・四運動)。こうして日露戦争直後は親日留学生研修生が多く来日した日本に対して隣の朝鮮半島や中国本土では今度は逆に日本排斥の狼火があがるという皮肉な現象を呈しはじめた年であった。大正九年(一九二〇)、坂本健一が「コーラン経」上・下二巻を世界聖典金集の第十四巻と第一五巻として世界聖典刊行合より出版した、日本では聖コーランの日文完訳はこれが嚆矢である。田中途平は「支那回教徒問題の招来と皇国神道」の一文を起草、発表した。



山岡光太郎は中南米(ラテンアメリカ旅行)より三年振りに帰国した(二月十日)。一方三田下一も揚子江探検旅行より帰国して山岡を鎌倉の寓居に訪ね、周家口訪問時のてん未を語り、ここに師弟の葵を結んだ。ちなみに三田のイスラーム・ネーム「オマル」はこの時師の山岡から命名されたものである。(師と同名)。



他方、ソ連邦治下のバシキールより、この年の十一月クルバンガリーがリーダーとなってバシキール族青年十余名を帯同して来日した。これが彼らの第一次訪日であり、このとき一行は早大総長大隅重信侯に会見して大いにイスラームをアピールした。



外地では第一次世界大戦の後遺症としてシベリア方面で跳梁していた過激派の極東パルチザンによって邦人居留民百二十二名が惨殺された。いわゆる世にいう尼港事件である。



これとあい前後して中央アジア各地からソ連赤軍の圧迫と追及を脱れてトルコ・タタール系ムスリムはじめイデル河からウラル山脈にかけての多くの回教徒が日本へ亡命してきた。彼らは三三五五小グループを組んで東へ東へと逃避行をつづけ、その途次ハルピン、奉天(潘陽)、京城(ソウル)大連、(現旅大)、神戸、名古屋、東京および仙台の各主要都市に思い思いに寄留して生計を立てた。



当時の日本人の篤志家たち特に右翼の巨頭運は次窮鳥ふところに入れば。の一種の義気をもって彼らを温く迎えかつ庇護した。そして一部トルコへ帰国した者以外の多くは日本に踏み留り、神戸、東京両モスクをよく護持して健闘した。



大正十年(一九二一)、安易健が「回教及び回教国」を刊行した(注=河瀬蘇北著、近代回教史潮の序文より)。山岡光太郎も「回々教の神秘的威力」を三七七ページにまとめて新光社より出版した。また前年あたりより飯田忠純が斯界に登場して回教問題に関する研究論文を多く提起している。



前年に引きつづきクルハンガリーがバジキール族青年十余名を引率して来日した。これが第二次訪日である。彼らは今度は大隈侯以外にも政財界要人と面接してイスラームの偉大さと蒜運な自分たちの立場を強調アピールしている。



とくに日本吉来の風俗、習慣、伝統の中でバシキールのそれらと一脈近似した共通点を指摘して日本人識者の共感を誘った。また日本民族の敬神思想の崇高なることに敬服してイスラームの処女地日本の土壌こそ自分たちムスリムにとって将来の開拓地であり、また同時に永遠の安住の地でもあると彼らは痛感したのである。



他方エジプト国王の甥にあたる王族二名が三週間の日程で日本観光に来遊した。また中国回教界随一の碩学上静斎がカイロの名門アズハル大学に遊学した。



中東方面ではケマル・アタチェル指揮のトルコ国民軍がギリシャ軍を撃破したいわゆるザカリヤの戦勝である。アフガニスタンとペルシャが相互不可侵条約を締結した。またイラク王国とヨルダン王国のふたつの新国家が成立した。



大正十年十一月四日、政友会総裁であり内閣総理大臣である平民宰相こと原敬が東京駅頭で刺殺された事件があった。この事件そのものはイスラームになんら関係ないようであるが、この暗殺犯人中岡良一はその後ムスリムとなっている。



彼は当時国鉄山手線大塚駅の駅手であったが殺人犯として一旦死刑が宣告され服役、その後数次の恩赦と大数のお陰で刑期満了後出所、のちハルビンに渡り(昭和初期)同地でイスラームの尊厳にふれて一念発起イスラームに衷心帰依した。かくて彼は純良なる一個のムスリムとなり更生して社会慈善家となり昭和二十年日本敗戦まで大いに活躍したという後日談がある。



大正十一年(一九二二)、この年ほどイスラーム関係の図書や論文が多く世に公刊された年は大正時代診しい。



まず法学博士大川周明が「回教徒の政治的将来」を改造に発表した。ライバルの文学藩士内藤智秀は「汎イスラミズムの将来」を同じく改造に寄稿する。トルコ間題専攻の大久保幸次は「トルコの復興と回々教徒の復興」ほか数篇をやはり改造誌上に掲載して期せずして論壇上に競合の形となった。



単行本では山岡光太郎が「外遊秘話」を、新進の口村佶郎は「野聖マホメット」を四五三ページにしてライト社より出版した。仲公路彰が聖マホメットを主人公とする戯曲もの「砂漠の光」数幕を執筆出版した。また田中途平は劉介廉の名著「夫方至聖実録」を日課した。但しこれが製本され公刊されたのはこの十数年後で昭和十年代に大日本回教協会によってである。部曲のごとく偶然にも出版界に躍りでる賑やかな年でもあった。また中国西北辺境問題にも詳しく自分自身も現地甘粛省にいた大林一之は「支那の回教問題」を論述してこの年の出版界の最後を飾った。



次に人物釆柱間係では先にハルビンにてモスクを建立したイマム・アフマッド・イナヤトゥルラーはそのハルビンから来日、入京して初の公開礼拝を嚴修しその光景を田中途平とともに披露した。逆に三田下一は日本から大連へ渡り山岡光太郎の斡旋で満鉄に入社が決定した。



またこの前年におきた皇太子妃内定に関する「宮中某重大事件」を惹起した明治の元勲であり明治建軍の大御所でもある枢密院議長山県有明はその責を負って辞職した。政教社同人であり右翼系の熱血漢ムスリム松林亮はこの事件についてある種の重大決心をしたが未遂に終った。



この年は偶然にも大限重信と山県有明があいついでともに八十五才で長逝した。いずれも明治維新以来の元老であるが殊に大隈は歴代首相中もっともイスラームに理解が深く、昭和時代に大日本回教協会初代会長となった元総理休銑十郎陸軍大将とともにこの点にかけては双壁であった。



大正十二年(一九二三)コスモポリタン山岡光太郎は、朝鮮半島から陸路大連上海を経由してそこから乗船し、香港、シンガポールをまわり、カイロに向った。



山岡門下の三田下一は満鉄本社の依命で北満黒龍江省の穀倉地帯である克山方面へ農産物の集荷状態を調査に出張した。田中途平はインド独立運動の志士ヒバリボースと交友した。ちなみにこのボースは第二次大戦期に来日したチャンドラボースと混同を避けるため一般には新宿の「中村屋ボース」といわれている。



田中はこの年の十二月、かねて念願のメッカ聖地大巡礼の壮途につくことになった。実に明治四十二年のハジ第一号山岡光太郎のそれに次ぐ邦人ムスリムとしては第二番目の巡礼行であった。これより関東大震災の翌日の九月二日、内藤智秀は神戸港より日本郵船伏見丸に乗船インド・イラン・イラク視察旅行のため出帆した。



東京大阪両方面で実業家として活躍中の新月アブドル・ハリム山田買次郎は茶道宗偏流家元第八世宗有(不審庵外字)の龍名抜露式を東京日本橋倶楽部で盛大に開催して多数の名士トルコ関係者が列席した。



坂本健一は先に聖コーラン経上・下二巻を刊行したが今回は「ムハメット伝」上・下二巻を世界文庫刊行合より上梓した。また河瀬蘇北はこの年雑誌太陽に「回教の革命」を投稿した。大久保幸次も前年に引きつづき外交時報に「回々教の人種包容性」を始め、そのもっとも得意とするトルコ民族間題を採りあげて幾つかの論文を関係誌に掲載発表した。大阪毎日新聞社記者の渡辺己之次郎は自社より「回教民族の活動と亜細亜の将来」と題する二七九ページにわたる単行本を出版した。



ちなみにこの年アフガニスタンのアマヌラ王の顧問プラタップ(インド王族の出身)が日本と修好条約締結のため来日して特に従前よりアフガン民族間題に関係のある黒龍会・玄洋社系右翼の熱烈歓迎と接待を受けてアフガン間題の重要性をアピールした。



大正十三年(一九二四)、この年の初頭、田中途平はメッカへの途次山東省済南へ立寄り清莫大寺の曹鳳麟教長から正式にイスラームの受戒を授かり聖地へ向った。時に田中四十二才で、これが彼の第一次聖地巡礼行であった。



丁度この頃、副高次郎も宿願である中央アジア横断旅行を敢行すべく一月一日を期して北京を進発した。この半年後の六月重松裕房は内蒙古のパインタラ(通運)で大本教の聖師出口王仁三郎、合気道の始祖植芝盛不一行数名が現地屯懇兵のため逮捕され、銃殺刑を執行される直前に救援のため馳せつけてこの危難を救ったという一幕があった。



世界的地理学として有名な志賀重昂はペルシャ湾岸国オーマン首都マスカットを訪れタイムール王と謁見した。この年、山岡光太郎は曽遊の地トルコの首都イスタンプールに安着した。内藤智秀はイラン・イラク祝祭旅行を終えて日本へ帰還の途次上海に立寄り同年輩の旧友佐久間貞次郎と再開して中国回教について談義した。以上のように本年は田中・副島・志賀・内藤らが商船北馬の文字通り海外への渡航の頻繁な年であった。



この年の出版関係では河瀬蘇北が前年に引つづき「近代回教史潮」を三二〇ページまとめて中外日報社より出版した。ちなみに同社は京都にあり日本では唯一の純宗教新聞発行社である(社主涙骨)また中国の回教通で満鉄マンの太宰松三郎(のちの満州日日新聞社長)が「支那回教の研究」を満鉄本社より出版した。赤松智城(のちの京城帝大教授)が哲学研究第九巻の三号と四号に「回教思想の特色」というテーマで上と下を連載している。その他では大久保辛次がトルコ民族間題を雑誌「東洋」に登載している。このように大正時代のイスラーム界の刊行物の主流の大半がトルコのイスラームで、戦後のアラブを中心とするそれとは極めて対照的である。



この大正十三年は日本国内では大川周明・安岡正篇らが提唱する「行地金」と、安部磯雄らの支援する「総同盟」の右翼対左翼の両翼が拮抗対立した年でもあった。



他面同年十一月下旬に中国の孫文(孫逸仙)が広東より北京へ向う途中神戸へ立寄った。そして彼のかねての主張であり持論である「大アジア主義」というテーマで大講演会を開催したが、かの辛亥革命以来親交のあった頭巾満、犬養毅らがこれに声援を送った。



このとき日本回教界方面からは川周明、有賀文八郎、山岡光太郎、田中途平らの「一匹浪」的憂国慨世の面々が孫文の提唱に共鳴してこれを激励してやまなかったのである。



大正十四年(一九二五)一月に奉天(現潘陽)雪見町の文化清算寺の総数長、張徳純が大連のクルハンガリーとともに来日したが彼らといずれも面識のある田中途平が世話役を引受けて奔走した。



そのクルバンガリーは「東京回教団」を初めて結成してここに在日イスラーム運動の第一歩を開始することになる。



三月には初代駐土大使小幡西吉が任地トルコへ赴任するが内藤智秀は外務省一等通訳官として同大使に随行した。七月には新宿東京ホテルの大ホールで本年の犠牲祭(別名クリバンバイラム)を盛大に執行し、夕刻より後援者の岡元甚五邸にて聖餐式を開催した。ちなみに氏は昭和十九年大日本回教協会よりモロ族調査のためフィリピンのミンダナオ島へ早大の古川崎風一戦後早大図書館長兼教授)らと派遣された東大出身の傑物である。



出版物では前年聖地メッカ大巡礼から帰還した田中途平が「イスラム巡礼・白雲遊記」を済南の座下書院から出版した。三二〇ページにおよぶ現地報告記である。京大教授桑原騰蔵が「中世支那に移住せし西域人について」を史林に発表、また二年前に踏査旅行した現地事情を志賀重昂が「オーマン・イラク両国王の謁見」と題し雑誌「太陽」に掲載した。



その他、内藤智秀が「モロッコ間題」を史学に、また「西亜細亜の旅」を三田評論に寄稿したが、この年はモロッコ間題を研究の対象に採りあげて発表する学者が少くなかった。旅行では、この前年の一月一日、北京を出発して約六石数十日を要して九月に副高次郎が中央アジアの大草原を無事単騎横断して終着地イスタンプールへ到着。東亜同文会の田鍋安之助がアフガニスタンの首都カプールにカイバル峠の国境を越えて入境し、国王アマタラ汗に謁見するという壮挙を敢行した。



大正十五年(一九二六)は、労働農民党や社会民衆党などの組合活動が活発となり各地で大争議が続発して社会情勢も不穏になってきた。



前年、大旅行を無事完遂して帰還し「アジアを跨ぐ」を刊行したばかりの副高次郎は、長途旅行による過労のためか大連にて急逝した。三十一才の昔さであった。田中途平は井上哲次郎藩士創立の大東文化学院講師となり、また小石川水道端町でアジア間題やイスラームの礼拝方式について講習会を開いた。



出版分野では、赤松智城が「近東における回教民族の動乱について」を上申下の三部作として「宗教研究」の誌上第三巻第一号から王号までに分割掲載した。



笠間呆雄は、トルコ問題を外交時報その他に発表した。笠間は外交官出身でのちに駐イラン公使に主任する人物で、当時外務省随一のイスラーム通であった。また先年オーマン等ペルシャ湾岸諸国を視察旅行した世界的地理学者志賀重昂は「知られざる国々」を執筆、出版した。



アジアの秘境カプールに前年入境した田鍋安之助は東方公論誌上に「新興アフガニスタンの現状」を発表した。小型母四郎は母校慶応義塾の予科会誌に「アラビア人の記録に見えたる唐について」を研究発表した。



最後に異色ある人物の論考がある。それは現役軍人である本位間雅晴(当時中佐のち中将)の「黎明記の西部亜細亜」上申下の三部作を外交時報に登載した一事である。本間は陸軍切っての英国通であり、秩父宮の御代武官や駐英日本大使館の武官補佐官を勤めたが敗戦の翌年、フィリピンで戦犯として銃殺刑に処せられた「悲劇の将軍」であった。



南方派遣の第八方面軍司令官でありながら、終戦後インドネシア大統領スカルノやハックらの助命嘆願によってあやうく死刑を免れた陸士同期の今村均大将とはその運命は極めて対照的であった。



海外方面では米の極東通オウエンニフチモア博士が自動車を駆って内蒙からトルキスタン地帯を走破した。このコースは通称「羊膓の道」として知られ、この翌年ヘディン博士も通過した経路とほば同一ルートである。その旅行記は「トルキスタンへの砂漠の道」と題して和訳されて、昭和時代になってから日本で出版され、好評であった。



十一月インドのカルカッタでかねて不穏の形勢下にあった回印両教徒(イスラーム教徒対ヒンズー教徒)の正面衝突が惹起して双方多数の死傷者がでるという不祥事件があった。



十二月にはトルコ・イラン・アフガニスタンの間に「三国相互安全保障条約」の調印式が行われている。





書名
著者
出版社
出版年
定価
日本イスラーム史・戦前、戦中歴史の流れの中に活躍した日本人ムスリム達の群像
ISBN: 不明
小村不仁男 東京・日本イスラーム友好連盟 昭和63 3800


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