第七章
明治時代


小村不仁男著



明治初期(元年5〜十五年)

中東、中亜の回教諸国を最初に歴訪した人たち



明治日本の幕開けは、同時に日本イスラーム界にとってもその黎明期の幕開けてあった。



慶応から明治に移る過渡期に日本イスラーム開創期における最初のムスリムとなった大先覚者が二人あい次いで誕生したのである。



慶応二年(一八六六)八月二十三日に生れたアブドル・ハリル新月こと山田寅次郎と、同じく慶応四年(一八六八)三月五日に生れたアフマッド・阿馬土こと有賀文八郎の両名である。この東西に長くのびる日本列島の中でも、山田は群馬県沼田、有賀は福島県白河と奇しくも直線距離にしてわずか七・八十キロ内外のところで二人は誕生したのであった。



この日本イスラーム史上に特筆すべき最初のムスリムである山田・有賀の双壁が実際にイスラームという新しい宗教に帰依するのは、まだこの両者の生誕の時点から四半世紀後のことになるのである。



それでまず順序として宗教以前にイスラームの国を訪れたことのある人物から紹介を試みよう。



明治維新に最初にイスラーム諸国の中の一国と接触をもち、イスラーム国の土を最初に踏んだのは桜痴こと福地源一郎であった。



彼は長崎の出身で、明治元年に日本で初めてともいうべき「江湖新聞」という新聞を創刊した言わばわが国における新聞記者の「はしり」である。



福地は明治四年(一八七一)秋に特命金権大使岩倉倶視、副使木戸孝允、大久保利通以下総勢四十八名からなる一行の中の一員としてこの遣欧使節団に随行したが、その途次オスマン・トルコ帝国視察の特命を受けてコンスタンチノプール(現イスタンブール)を訪問したのである。



もっとも、これより数年前の慶応三年二八六七一に徳川昭武(水戸藩主、徳川斉昭の実子にして十五代将軍慶喜の実弟)がパリで開かれた万国博覧会に参会のため渡欧、その途次一行二十数名の随員の中にエジプトやアラビアに触れた道中の見聞録が若干あるがその記事は極めて簡述されているに過ぎない。



明治九年(一八七六)江戸出身の林薫が「馬哈黙伝」を明数社より出版した。この原本は英書であるが、明治五年(一八七二)渡欧した浄土真宗西本願寺派の光時における開明僧である赤松運城と嶋地熱雷がその旅行の途次入手した「ライフ・オブ・マホメット」からの和訳本である。「この原本はもともとキリスト教系の一聖職者の執筆によるものであるから、勢いイスラームに対する偏見と曲解があるのは免れない云々」とその訳者である林薫自身が手直に述懐しているところである。



ちなみに、林はこれより十年前の慶応二年(一八六六)幕命によって中村敬宇とともに英国に留学しているし、また明治四年には岩倉大使らの遺欧使節の随員のひとりとしても参加するなど、当時としては最先進の外交官で、明治三十九年(一九〇六)には外務大臣や逓信大臣の要職を歴任したような大物であるからこそ、この訳業を完遂できたのであろう。これが実に日本における「マホメット伝」刊行の嚆矢(ころし)第一号である。



さらに明治十年(一八七七)には桜川山人こと中井弘が駐英公使館三年勤務後に離任の帰途、歴訪した道中記「魯西亜・土耳其漫遊記程」三巻を著述した。



この著作は、渡辺洪基がロシア本国から黒海を渡りトルコに入りエジプトを訪問した際に中井が随行したときの見聞記であるが、その内容はオデッサからエジプト、コンスタンチノプー〃、スエズ、アデン、ボンベイ及びシンガポールまでの広範な各地にわたっている。



渡辺洪基は福井県出身であるが明治十二年(一八七九)には学習院々長となり、その後は東京帝国大学総長にまでなった人物である。このように今から百年以上も昔の明治初期にイスラームの国々を訪れたりその旅行誌を後世に遺したりした人々はさすがに傑物ばかりであった。



明治十一年十一月(一八七八)には、練習艦隊軍艦「清輝」がオスマン・トルコ帝国コンスタンチノプールを表敬訪間した。軍艦といってもわずか八九七トンであるが明治の初期では最新鋭艦であった。この「清輝」は明治六年(一八七三)にフランス人の造船技術家の指導のもとに横須賀で建造された日本海軍最初の軍艦である。



翌明治十二年(一八七九)にはトルコ領のサモス島の士侯コンスタンティーン・ゼイ・フラテーアデスが明治帝へ乾葡萄五箱を献納したという珍しい外交書が遺っている。



明治十三年(一八八○)には日本人最初に聖地メッカ大巡礼を軟行した山岡光太郎が広島県に生れた(三月七日)。この年は明治初期においては、かって例のない陸海両方面より中東イスラーム。国を訪問しているグループがあったことを注視しなければならない。



まず同年四月六日、外務省の御用掛吉田正春、陸軍工兵大尉古川宜誉、帝国ホテル支配人横山孫一郎以下民間人も混えての十数名の団体である。彼らは、折柄の猛暑を冒してペルシャ国の内陸並びにペルシャ湾岸(現ガルフ湾岸)諸国を歴訪して宮廷をつぶさに見学している。このとき坐乗した軍艦は初代比叡で、艦長海軍大佐伊東祐亨は、のち日清戦役当時の軍令部長海軍大将(のち元帥)である。



なお、この年、中国ではイスラーム関係で二つの顕著なケースがある。その一つは近代中国随一の回教神学・哲学考究の最高権威者となった王静斉アホンの誕生である。王は後にエジプトのアズハル大学に留学しアラビア語原典を漢訳したがこの漢文の大経コーランは今日なお珍重されている。



もう一つは、東西両トルキスタンに跨りイスラーム独立国建設を企図して反乱を勃発した泉雄ヤクブ・ベク、自称「清算王」を征討した官軍の勇将、左京棠が清朝から北京へ召喚されたことである。



明治十五年(一八八二)二月二日に、メッカ大聖地巡礼を敢行して邦人ムスリムとして第一号のハジ・オマル山岡光太郎に次いで、第二号と第三号の栄誉ある称号をひとりで取得した天鐘ハジ・ヌール田中逸平が小金井(現東京都下小金井市)で生れている。



そして中国ではこの年十二月に始めて新疆(現ウィグル自治区)が一省として独立し陜甘総督の統治下に設置される二とになった。




明治中期(十六年〜三十年)

日本人ムスリム初めて誕生



明治初期の頁で述べたように、当時イスラームの独立国家であったペルシャ帝国やオスマン。トルコ帝国を歴訪したり、あるいは内陸アジアの秘奥辺境のトルキスタン地帯を踏破し、それぞれ貴重な旅行記を誌した先人は幾人か現れたが、未だ真価のムスリムとしてイスラームという宗教信仰に改宗帰依した日本人は見当らなかった。



しかし、明治も中期になってから日本イスラーム史上最初の邦人ムスリムが期せずして二名出現することになるのだが、それは明治二十五年のことである。



まず順序として明治十六年は内外ともに特記すべきことがなく翌十七年(一八八四)には福田規矩男が長崎県平戸に生れている。彼は後述するように日本イスラーム界における無名の大先覚者である。



明治十八年(一八八五)には有名な東海散士こと柴田朗が「佳人之奇遇」を出版した。柴田朗はかって「会津士魂」で名を馳せた幕末最後の会津武士条家の四男で、次弟五郎は陸軍大将にまで栄進した。そして日本敗戦の年の十二月上二日、九十才の老台で割腹自決して会津士魂の掉尾を飾った。



さて、この「佳人之奇遇」は執筆者である柴田が農商務大臣谷平城(西南の役の猛将、のち陸軍中将)がヨーロッパへ赴く途中、谷に随行してセイロン島(現スリランカ)に当時流刊に処せられていたアラビ・バシャ大佐に会見して聴取した話を素材にして構成したものである。英国の圧政に対して反乱をおこし敗れたエジプトの悲運の歴史を背景に独立解放運動の志士あり、一世の美女あり、これを援ける闘士あり、その登場舞台はエジプトを中心にスーダン、スペイン、トルコ、ポーランドからマダガスカル島その他アジア、アフリカ、ヨーロッパの三大陸にわたる構想とスケールの大きい波瀾万丈、名士多彩な大ロマン小説であった。



それは、まさに当時におけるベストセラーで、現に筆者の中学時代の恩師京都府立桃山中の田中常態校長(旧薩摩藩士族出身)も明治二十年代の若かりし頃、この本を愛読してやまなかったとは、その自叙伝「わが八十年」中に述べておられるが、当時いかに江湖の読者に人気があったかが右でも判るであろう。



また、これとは逆のケースがある。熊本出身で青年時代に仏・独に遊学し、伊藤博文の下で明治欽定憲法や皇室典範から教育勅語にわたる多くの法令や重要文案の起草に参加し、後に文部大臣にまでなった井上毅が、「マホメット論」を発表して、イスラームの教祖マホメットがいかに獰奸邪悪な人物であり、その宣布する宗教がこれまたいかに未開野蛮な低劣かつ淫靡な信仰であるかを極端なまでに誹謗し、こき降ろしているのである。先には慶応・明治の文明開化期における啓蒙思想の先駆者として幕末までに三度も欧米に渡航した開明学者、福沢諭吉などもそうだが、明治の卓抜人士の対イスラーム観、対マホメット観はこのように極端なまでに歪曲されているのである。



こうした一時代における最高のトップクラスのイスラームへの誹謗非難は、これから百年の歳月を経過した昭和の今日でもなお、歴然とした後遺症となっており、後進の人々に精神的思想的に与えた影響力はすこぶる深刻かつ甚大であるといわねばならない。



明治十九年(一八八六)には、大正から昭和期にかけてイスラームの史学・神学・哲学研究の各分野において華々しく活躍し、多くの著作をそれぞれ世に遺した三名の著名な人物が誕生している。



大川周明・内藤智秀・佐久間貞次郎の三者がこれである。しかも大川・内藤の両博士は同じ山形県の出身で、奇しくも中学時代は机を並べて勉強した仲であるばかりか、東大の同期でもある。佐久間は号を東山、数名イリヤスと称し、大川・内藤のような官学の学歴こそないが、中国イスラームつまり漢籍の回教図書文献に精通し、その専門分野の造詣の深さは現在でも比肩しうる学究は極めて少いてあろう。



この年、イスラーム関係の出版物が一件あった。それは、ちょうど六年前に露都ペテルスフルグから秘境中央アジアのサマルカンドやイリ地方を跋渉した西徳次郎が、帰国後に執筆した「中亜細亜紀事」上下二巻で、あわせて六四一ページにもおよぶ膨大な報告書であっていずれも陸軍文庫からのものである。この先人未踏の辺境各地を探訪した西の報告書は、当時北方の白熊として恐れられていた帝政ロシアを仮想敵視していた日本陸軍にとっては「兵要地誌。的にも貴重な資料となった。



明治二十年(一八八七)は同山こと佐藤甫が熊本県に生れている。彼の号「同山」とは後年「回教民族の新疆省」とまでいわれていた東トルキスタンに憧れ、この地を第二の故郷としてみずから冠したものであろう。



またこの年は皇族小松宮(東伏見宮)彰仁親王殿下が渡欧視察の途次トルコに立寄られ、皇帝アブドル・ハミッド二世と会見、両帝国親善の実を挙げられたが、このときの乗艦は比叡(先代比叡艦長・海軍大佐田中綱常)であった。この小松宮のトルコ皇室への親善旅行をきっかけとして種々の事件が発生し、それがやがて日本最初のムスリムをつくる一つの誘因となろうとは誰がこの時点で予測し得たであろうか。歴史の因果関係というか運命の変転ほどマカ不思議で面白いものはない。



明治二十二年(一八八九)は、長崎県平戸出身の浦敬一が揚子江中流の要鎮、漢口を出発して新疆トルキスタン探検の壮途についた年である。彼は日本人最初の西域探検第一号ともいうべき人物であるが、同時にシルク・ロード途上において消息を永遠に絶った悲運のヒーロー第一号でもあった。この年、英国のヤング・ハズバンド郷が西域トルキスタン方面の踏査を敢行しているが、彼は無事目的を達成して本国へ帰還した。



さて明治二十三年(一八九〇)は、先に述べた運命の一転換となった事件が勃発した年である。この三年前の小松宮のトルコ表敬旅行に対する答礼として、トルコの皇室から明治帝に対してオスマン・トルコ帝国最高の勲章を贈呈しようと、皇族海軍少将オスマン・パシャが派遣された。ところがその使命を達成しての帰途、乗艦ユルトグロー〃号が台風のため遭難したのである。現場は南紀沖で艦長アリー・べー大佐以下、乗員六百九名中正百四十名が水没するという近来にるい一大海難事故で、同年九月十六日夜半の大珍事であった(注、ユルトグルールとはオスマン・トルコ朝の創始者の名である)。この事件が二年後に日本で最初のムスリムを生みだす要員となったがそれについてはのちに述べることにする。



翌、明治二十四年(一八九一)四月に、明治上二年にペルシャ旅行をした陸軍工兵将校古川宣誉が、帰国後十年目にして参謀本部より「波新紀行」三二〇ページを刊行した。ちなみに古川は初期陸軍工兵科出身の偉材で、このあと三年後の日清戦役に際しては大佐に昇進して兵姑部兵站監として出征している。奇しくもオマル山岡光太郎の父山岡光行騎兵中佐もこのとき騎兵第二大隊長として従軍している。



またこの年は昭和時代の日本イスラーム界に須田正継、三田了一らとともに三羽ガラスとして活躍した松林亮が仙台に生れた年で、彼の遠祖は仙台伊達藩の剣客、松林左馬助永吉である。



明治二十五年(一八九二)になると、二年前の二十三年九月、紀伊半島沖で難破したトルコ軍艦エルトグロール号の生存者六十九名を軍艦比叡(艦長海軍大佐田中綱常)にのせトルコの都イスタンプールへ送還することになった。



これを知った熱血義侠の青年山田寅次郎は当時の「日本新聞社」の先輩記者福本日南らのバック・アップで集めた義損金と山田家伝来の家宝明珍の甲胃や陸太刀等をトルコ皇室に献納しようと決心して、海軍当局や外務大臣青木周蔵らに陳情し、その破格の配慮と許可によって同艦に便乗が認められて渡航することになった。一月三十日のことである。



それとあい前後したころ、有賀丈八郎はインド貿易開拓のためインド西海岸の大都市ボンベイへ向い、西本願寺より派遣された留学僧侶東温譲とこの地で奇遇した。有賀はこの地で滞留中にイスラームの偉大にして崇高な教えに薫染されて日本最初のムスリムとして帰依するのである。こうして期せずして日本イスラーム界開明期における最初のムスリムとしての双壁がトルコとインドの両現地において、あたかも申し合せたように出現することになるのである。



そしてこの年の十二月十九日、日本人ムスリムとして最初にアラビア語原典より日訳注解の「聖コーラン」を刊行した三田了一が山口に誕生する。三田は出生地、風貌、品格高潔清廉なところが乃木将軍とそっくりぐあったので「今月木」の異称があった。



他方、二月十一日に陸軍中佐福島安王(のち大将)がベルリンを出発し、欧亜両大陸の単騎横断の壮途についている。



明治二十六年(一八九三)にはロシア・イスラーム研究と実践家の第一人者で山岡光太郎の母校東京外語の後輩にあたる須田正継が山梨県に生れた。こうして明治二十四、五、六の三年間に昭和初期から四十年代までに日本イスラーム界において華々しく活躍した三長老があい次いて生れたことになる。



また中国では孝宗仁将軍とともに西南派随一の回教将領であり、「小孔明」とか「今孔明」とか一般に異称された白票穂将軍が広西省に生れている。



翌明治二十七年一一八九四一は、十三年当時外務理事官であった吉田正春が「波斯の旅」を博文館より出版したがこれは、かつて同行した古川大尉の出版より三年後であった。前記古川の三二〇ページに比べ、こちらば一九一ページの報告記で、明治十三年に旅行を実施して以来、実に十四年目の刊行であった。



この年は日清戦争が勃発した年であるが八月一日の宣戦布告以前にすでに豊島沖海戦は開始されていた。



日清戦争は開戦以来、日本軍の連戦連勝で進んだが、敗戦つづきの清軍の中にあって唯ひとり勇敢に日章に抗戦激闘した清の猛将がいた。平壌死守で勇名を馳せのちに忠壮公と称せられた回教徒出身の左宝貴将軍であった。



明治二十九年(一八九六)、ニュームスリムとしてトルコから帰朝した山田寅次郎が雑誌「太陽」に「士耳古通信」を発表したが、その前年にも「土耳其の演劇」を同誌に投稿している。また大正時代に中央アジアの大草原を単騎横断してトルコのイスタンプールまで旅行した副高次郎がこの年佐賀市に生れた(九月二十日)。他方、山田寅次郎は大蔵次官若槻礼次郎と横浜正金銀行(現、東京銀行)の高橋正清の斡旋で「阿片問題」解決のため台湾へ赴いた。(注=若槻、高橋は大正昭和期に首相となった)



翌明治三十年(一八九七)台湾から帰還した山田は休む暇もなく再びトルコへ渡航する。目的は当時流行し始めた巻煙草に使用する用紙の製造方法研究のためである。高桑駒吉が「回教教主の世系」という短篇ものを史学雑誌に発表したのもこの年である。ちなみに本文はサラセン帝国における歴代カリフ(教皇)の系譜を解説した内容が主である。




明治後期(三十一年〜四十五年)

聖地メッカ大巡礼者あらわる



明治後期に入ると、日本では初めてメッカ、メジナの聖地巡礼を敢行した邦人ムスリムが日本イスラーム界に登場するようになる。



またマホメットの伝記類やイスラームの唯一天啓経典コーランの教理に関する研究文献がようやく斯界に発表されるようになった。



明治三十年(一八九九)に、坂本健一が一四六ページからなる「麻謌未」つまりマホメット伝を博文館より刊行した。



また、家水豊吉は台湾総督府の命令で阿片調査の目的をもってインド、ぺルシャ、トルコ等の中東方面へ出張した。先の日清の役で戦勝した結果、日本は台湾を領有はしたものの、当局は原住民の阿片吸引間題解決に頭を悩まし苦労した。山田寅次郎が台湾、トルコへ赴いたのも家水豊吉の場合と同一で、阿片中毒患者救済対策研究がその視察目的であった。ちなみに家永は翌年「西亜細亜旅行記」(一九一ページ)を民友社から出版している。



明治三十三年(一九〇〇)四月、「義和田」が蜂起し、遂に北京へ入城して列国公館はいずれも危険に瀕し、北京在住外国人居留民たちは色を失った。列強の要請に応じて日本は距離的にもっとも近い関係で二万二千名の大兵を出動してこれを救援、しかも軍紀軍律厳正にして掠奪暴行など一切せず大いにその名を世界に宣揚した。世にいう「北情事変」である。この事変の中心人物、端部王と董福祥はともに中国有数の回教徒出身であった。



明治三十四年(一九〇一)、田中途平は拓殖大学の前身である台湾協会学校を第一期生として手業した。明治三十五年(一九〇二)に学業をおえた田中途平は北京へ遊学し、早大よりオーストリアへ留学していた井上雄二は中央アジア僻地を探訪旅行すべく首都ウィンを進発した。



この年、浄土真宗西本願寺派の門左大谷光瑞以下の西域探検隊(第一次大谷ミッション)も留学先のロンドンをスタートして秘境中央アジア探検の壮途につく。この両者は料らずも道中のボハラで偶然にも奇遇する。



明治三十六年(一九〇三)には、慶応義塾大学教授となり、アラビア・イスラーム史の権威となった前嶋信次が山梨県に生れ(七月二十日)、また聖地メッカ巡礼を志して陸路徒歩でその壮途についたがシルク・ロードの途上で非業の最期をとげた小泉洪太も東京に生まれる。井上雄二はこの年に民友社から四五二ページの「中央亜細亜旅行記」を出版した。また池元半之助が「マホメットの戦争主義」(二〇三ページ)を春山房より刊行したが、これは異色であった。



明治三十七年(一九〇四)には駐サウジ・アラビア大使をはじめエジプト、モロッコ、イラク、シリア等中東諸国に在勤した「アラビスト」外交官田村秀治が福井県に生れた。



明治三十八年(一九〇五)には、かねて風雲急を告げていた日露両国が遂に開戦、国交を断絶して交戦状態に突入した。この年、東洋大学々長である忽滑谷(めかりや)快天は「快傑マホメット」を井冽堂より刊行、また「マホメットに関する逸話」を慶応義塾学報より発表している。これは、およそ三十年前の明治九年に、かの林薫が直訳した英国人キリスト教宣教師のマホメット伝とは異り、著者白身の主観と直観によるマホメット像の把握による純正なる描写であるだけに、その論旨はおおむね隠健である。



海外では、「ナイル河の詩人」とまで謳われたエジプトの大詩人ハーフィズ・イブラヒームが「芙しき日本の乙女」というロマンチックなテーマで詩を発表したが、これは従軍看護帰として祖国のために献身奉仕する日本人女性の姿に托して日本が近代国家として発足する端緒を開いた過程を作詩したものである。当時はアジアやアフリカの多くの諸国が欧米列強の勢力下に植民地化されていた。彼の祖国エジプトもその圧制と収奪に泣いていた。しかしこの一篇の詩が、そうした圧迫された諸民族に対していかに深い感銘を与えたかは、その後八十年を経た今日でもレバノンや中東アラブ諸国が教科書の中に掲載していることから察しても充分うかがえるであろう。



これはその一つの事例を挙げたに過ぎないが、極東の一小国日本が世界随一の帝政ロシアに戦勝したというビッグ二一ユースは全世界の弱小国であり、常に劣等視されていた同じ有色人種のアジア・アフリカの諸民族をして一大民族的自覚と自決を促進せしめた。これが大正期に至るまで中国・エジプトはじめ多くの留学生や研修生が来日する直接の動因となったことは否定できないのである。



明治三十九年(一九〇六)には中国からムスリム留学生たちが富国強兵の日本を模範として来日した。彼らは陸軍士官学校や早大・法政夫等の私大に希望によってそれぞれ編入を許され勉強を始めた。



またこの年、陸軍歩兵少佐日野強(のち大佐)は特命を帯び、十月上二日に北京を出発して中国西北の辺境イリ地方探検の壮途についた。河北省の省都保定からは上原名市がこれに随行した。



一方、帝政ロシアはイスラーム地帯の外カスピ海鉄道を開通し、シベリア鉄道と連結して真備の輸送強化を企図した。



また明治・大正の文豪であり、明治中期のベストセラー「不如帰」(ほととぎす)の著者として有名な徳富蘆花が第一次アラブ旅行を試みた(第二次は大正八年で夫人を同伴した)。



十一月二十六日には「満鉄」こと南満州鉄道株式会社が設立され、一大国策会社として発足、のちに満州経営の大動脈として機能をフルに発揮した。ちなみに同年トルコの親日軍人スユナーイ少佐とファート大尉が「日露戦争」五巻の大著を公刊して宿敵ロシアに対して日本の勝利を称賛した。イスラーム建築工学の泰斗、伊東志太(工学博士、東大教授)が「シリア砂漠旅行記」を地学雑誌に、また「歴史地理」に「清算寺」を発表した。



明治四十年(一九〇七)、田中途平とかねて親交のあったイマム(導師)アフマッド・イナヤトゥルラーがハルピンを訪問し、今も現存するハルピン市内砲隊街にトルコ・タタール様式のモスクを建立することに貢献した。



翌明治四十一年(一九〇八)は、多事多彩な年であった。まず中国河南省の要衝周家口で長崎県平戸出身の鄭朝宗こと福田規矩男が独力で「東方学童」を開設して現地の回教徒青少年に日本語を教え、「日回親善」の実を挙げる第一歩を踏みだした。のちに三田下一が偶然にも揚子江源流探検の途次、この地を通過して「東方学童」を訪れ、それが三田をしてイスラームに初めて開眼する端緒となった。六月十六日には浄土真宗西本願寺派の橘瑞超、野村栄三郎が西域トルキスタン探検のため北京を出発した。いわゆる第二次「大谷ミッション」の開幕であった。



一方、出版物では松木赳が「マホメット言行録」を一八五ページにまとめ、「偉人研究シリーズ第三十九篇」として内外出版協会から刊行した。いわゆる「ハジス(聖伝)」であるが、これがこの方面の嚆矢であろう。ちなみに、この内外出版協会は東京巣鴨上駒込の山県邸内に本社があったという。



また同年、藤田季荘が「回々教の経典に就いて」を雑誌「東亜の光」に連続三回にわたり発表した。こうして明治初期中期とは異り、明治後期はイスラーム教義のかなり深奥にわたる研究が進むようになった。



海外では、トルコで青年トルコ党による革命が勃発し、アラビアでは、ヒジヤス巡礼鉄道がやっと竣工して南のジェッダから北のメジナまで貫通した。



なお、この前年頃よりインド人ムスリムのハラカツウラーが日本へ訪れ、パン・イスラミズム運動を提唱して朝野の人士にアピールした。同人も日露戦争の戦勝国日本に憧れてエジプトの各地からわざわざ来日した者で、東京外国語学校へ入学したが、後にアフガニスタンへ赴き最後はロシアヘ亡命したと伝えられるがその詳細は不明である。



明治四十二年(一九〇九)、この年九月山岡光太郎はいよいよ聖地メッカ大巡礼の壮途についた。時に回暦一三二七年のことである。一方、カイロからはエジプト人ムスリム留学生が来日した。彼らは早大講堂で大講演会を開催して英語で雄弁を振い、この日参集した聴衆は二千名に達したと伝えられている。論考では西域学の泰斗京大教授、文学博士桑原騰蔵が「英文」に創建清真寺碑を発表した。



次に韃靼(タタール)の老志ラシッド・イブラヒームが浦塩経由、釜山丸で来日した。イブラヒームはこのあと一旦帰国するが、後に再来して昭和十年代より敗戦の前年長逝するまで百才近い長寿を保って東京モスクの大導師をつとめ、椿藍期日本イスラーム界の多くの内外人ムスリムたちを領導した。



この年、昭和の初期、東予族の風雲児と称せられた馬仲英が西北中国の甘粛省河川(臨河)で生れた。河川は中国の小メッカとして中国回教徒から古来崇敬されている聖地である。



また、この年は中東イスラーム国で二つの歴史的重大事件が偶然にもあい次いで勃発した。その一つはイランのカジャール朝のムハマッド・アリ帝が国民軍のため廃帝とされ、その二つはトルコのオスマン朝アブドル・ハミット二世が秘密結社アル・カフタニアのため退位せしめられた。ここに期せずして、中東に余命を保持していた両イスラーム帝国はあい前後して倒滅するという因縁の年でもあったのである。



明治四十三年(一九一〇)、マホメット公文直太郎が撫順の研究所に理学博士西村真琴を訪問した。公文はのちにタクラマカン砂漠を徒歩横断してインドのカルカッタヘ出たが、その道中に大自然の壮嚴なる景観に接してイスラームに帰依し田中途平の門下生となる。



羽田亨(のちの京都帝国大学総長)が、高山寺所蔵の秘文を研究の成果として「日本に伝はれる波斯文に就いて」と題して史学研究会講演集に発表した。それは従来「南蛮文」と称して何人もよく判読解明できなかった秘文であったが、ペルシャ文学で、その意味はかくかくであると明快に論考した若かりし日の羽田博士の輝ける業績の一つとして学界では高く評価されている。「大谷ミッション」の橘瑞超がロンドンを進発した。これから大正三年まで五年間継続される世紀の調査大事業として数次にわたる大谷西域トルキスタン探検旅行のハイライトであろう。



明治四十四年(一九一一)、邦人ムスリムとして聖地メッカ・メジナ大巡礼を果たして帰国した山岡光太郎は、席あたたまる暇もなく中国の武昌革命に黎元洪支援のため、揚子江中流の武漢三鎮へ馳せつけた。



このように明治のムスリム先覚者たちは有賀・山田・山岡・田中ら、いずれも劣らず国士的熱血漢であった。これに続く第二期の松林亮、三田下一、須田正継らの日本ムスリム界の大先輩たちもまたその信仰心といい、旺盛なる実践的行動力といい、その例外ではなかった。



なお、この年の出版関係では曽遊の地トルコに宿縁浅からぬ山田寅次郎が「土耳古間観」を博文館より刊行し、また斉藤往々喜が「支那の回々教に就て」を東洋学報に発表した。



この年三月に日本側代表として千葉勇五郎、小松武治が基督教青年会世界大会列席のためトルコに赴いた。



明治四十五年(一九二一)、まず明治の回教史学界における双峰、文学博士桑原騰蔵が「創建清算碑」の研究論文を英文誌上に発表すれば、片や文学博士藤田豊八が「泉州におけるアラビア人蒲寿庚」の論考を東洋学報に掲載し、蒲寿庚とは実はアラビア人の漢名であると論断した。(注、戦後前嶋信次博士はこれをペルシャ人なりと反論されたことがあった)



他方、ハジー・オマル山岡光太郎は三年前に敢行したメッカ聖地大巡礼を刻苦精励みずから筆を執り「アラビア縦断記」と題して二五二ページにまとめ東亜堂より刊行し、明治天皇の天覧ならびに昭意皇太后の台覧というかって先例のない破格の光栄に浴するに至った。



また内藤智秀は東大文学部西洋吏学科を卒業したが手業論文は近東バルカン半島の一国「ブ〃ガリアの近世的勃興史」であった。



また、二年前にロンドンを出発して西域探検旅行に向った橘瑞兆が、その後はようとして消息を絶ったままであるので、これを憂慮して西本願寺から古川小一郎をその捜査に派遣した。両者は一方は、西から東へ他方は東から西へ一歩一歩と進み、橘はタクラマカン砂漠を横断し、古川は荒涼たるアロシャン・オチナの流沙を越えてシルク・ロードをたどり、ついにトルキスタンへの関門、敦煌でこのふたりは奇蹟的に再会することができ、万里の異郷で互いに無事を祝してあい擁して泣いたという。まさに中央アフリカの奥地で奇遇したリビングストンとスタンレーのケースにも似した劇的場面の再現であった。



ちなみにこの頃、実業会に活躍していたアフマッド有賀文八郎は東京と京都大阪方面を東奪西走して活動開始して彼の人生のもっとも脂ののり切った一時期であった。





書名
著者
出版社
出版年
定価
日本イスラーム史・戦前、戦中歴史の流れの中に活躍した日本人ムスリム達の群像
ISBN: 不明
小村不仁男 東京・日本イスラーム友好連盟 昭和63 3800


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