第六章
江戸時代(後半期)


小村不仁男著



林子平が見たイスラム式葬式

徳川吉宗が将軍職について間もなく殖産興業を施政の指針と定め、実用主義的立場からこれまでの洋書の禁を緩和した結果、ここに八十年振りに洋学研究熱が急激に目印まった。



すなわち甘藷の移植で有名な青木星陽、西洋医学の先駆者である前野良沢、杉田玄白、大槻広沢以下の優れた蘭学者が続々と輩出するようになった。



この現象が「蘭学事始」として新日本開化への幕明けとなったことはすでに間知の通りである。すなわち江戸時代の日本が近代科学への道に進むきっかけの第一歩ともなったのである。



以後、家重、家治の二代を経て家斉が将軍職につき松平定信が老中職に任用され寛政時代に移ると司馬江漢の「地球団」が完成されこれまでの類似書より幾多の修正と補筆が加えられ、アラビアにおけるイスラームの二大聖地「メッカ」も「モリッツ」また「メディナ」を「メテネ」という字をあてて記入されここにイスラームの二大聖地の名が始めて登場した。寛政四年のことである。



もう、この頃のなるとロシアの使節が北辺に来航したり、英国船が日本沿岸の測量を始めたりして物情騒然となり鎖国政策による徳川承平二百年に近い長い冬眠の夢が醒めかけてきた時代となった。



こうした内外の緊迫した情勢下に識者間では海外への関心がにわかに高まり、文化七年(一八一〇)高橋景保の「新訂万国全図」がつぎつぎに発表されるようになった。後者の方は文政二年(一八一九)のことで日本における近代的測量学者の祖伊能忠敬の没した実に翌年にあたる。



これはいずれも世にいう文化文政年代のことで一九世紀の初頭であり、かの西川知見の頃よりその調査も研究もさらに相当進歩を見るにいたった。



たとえば、その筆は遠く北アメリカ沿岸地方にまでかなり詳しく及び今の「チュニス」のことを「テュニス」と地図上に誌し「アルジェリア」のことを「アルギィル」「モロッコ」のことを「マロック」と高橋景保は図面上に記載している。



他方、山路諧考の方は今の「トリポリ」のことを「チリポリ」として「ヒンドスタン」は「印度斯当」、「テヘラン」を「低廉」というふうにそれぞれ適当な漢字を巧みに充当しているのである。



あい前後するが享保元年(一八〇一)刊行の山村昌永作の「訂正増訳采覧異言」には新井白石の「采覧異言」よりもはるかに繊細かつ綿密に回教圏のことを解説している。彼は「明史」や「大明一統志」とか「武備志」等の中国で出版された各種の文献を比較参照しながら採録しつつ、それまでの通称である「天竺」と「天方」はアラビア地方のことであるというこの両者をはっきり区別している。



さらに一歩進めてメッカやメディナのことをもっと詳しく転載していることは注目に値する。



天方とは馬哈麻教(注・マホメット教)の地であり、黙伽はすなわち馬哈出生の地にして亜?皮亜の西海浜の一国なり。



黙徳那はまたの名をメデナタルナビト(注・予言者の町の意)という。これ黙伽の属州にしてその地に馬姶黙の墓あり。玉石包形なる寺観はその教中第一の寺にして、その寺僧は教中僧官の至貴者なり、と(中略)第六百年代キリスト・ユダヤの諸教を混合して馬黙教を造立す。初めこれを弘む、第六百二十二年推古市三十年馬哈黙その国黙伽より逐れ、黙弟那に遁る。都児格(トルコのこと)の暦年はこの遁れたる年を初年とす。



この教の趣はいわく天主唯一あり、馬哈黙はその通事とす。これを言と心をもって悟了する者を模修爾満(ムスルマン)と名すけ正信者の義なり。(中略)格蘭と名ずく諸馬哈黙の経典にして亜刺比亜語をもって記す。その教を載す、都児格人は豚肉を食せず、葡萄酒を禁ず。その大寺を模斯結(マスジッド)と名すけ小寺を黙設鐸(モスク)と名ずく。



法教の総主を繆弗質と(?)称す。国帝もこれを尊敬し、国中の法教を司り命令を出し大事に当りてはこれを議す。然れどもその人通あり若しくは帝意に背けば国帝これを退け替ゆ。(注・当時メッカやメヂナの両地を含むアラビア地方は強勢なオスマン・トルコ帝国が攻略してこの地を占領して自国の版図にいれ政教一致の体制で支配していたので前述のようにトルコ人を都児俗人と表現していたのであろう。)



いずれにせよ、この山村昌永の解説するところの回教ならびに回数圏に関する知識と見解は若干の例外を除けばはなはだ正鵠に近いといえる。彼はこれを完成するまでに西洋書三二種にわたる多くの文献を参考書として採用しているのである。だが今からおよそ二百年青のこの時点においてよく調べ上げたものと驚嘆する。



以上はアラビア方面のことであるが、次にマレーシア地方の関係記事については右よりやや以前の天明七年(一七八七)の頃に森島中良が書いた「紅毛雑話」の中にマレー・ムスリムの食生活と彼らが使用する文字について次のように述べている。



すなわち、常に飯と肴を喰う。豚をば決して食せず鶏肉なども自ら殺して引導をわたしたる物にあらざれば食はず。四足の内にて牛ばかりは食う。これは夫方地方の常食なるが故なり。文字はマレイス文字を以って通用す。形、字に似たり。これは蛮人にも日本人にもむざとは伝えず、ねんごろに求むれば種々の戒行ありて生涯豚をはじめ何々の品を食せじと誓言を立たせ、その上にて伝えるとなり。(以下略)



これを今日一読してみても当時の南方系ムスリムらしき生態風景の一端が窺えるようではないか。



また、これから六年後に逝去した「開国共談」の著者であり、寛政の三奇人と呼ばれた私子平が長崎に遊学して西洋館に出入する頃の天竺の葬送を見る一場の記事がある。この天竺とは錫蘭(セイロン、現スリランカ)あたりの黒坊の葬式を瞥見した際の一コマらしいが以下のようにこれを描写している。



すなわち、棺は杉板にてこしらえたる臥棺なり、これも出島より稲立山へ舟にて送る。同国の黒坊悟真寺まで見送り総て寺僧の手をまたず、葬穴の前にて死骸を引出し赤裸にして口の内へ土をなるだけ押し込み、横ざまに伏させ置き、その身はサロンという天衣のごとく仕立てたる木綿の単なる礼服を着し、これは常にも着てかの邦の服なり。打敷を敷て礼拝をなし横文字にて書きたる経文を出して天竺にて今世は梵字を用いずマレイスの国字を用い読経す。その声ははなはだ殊勝なり、それより経を終って後事を合せアミンと唱えながら左右を拝すること百遍にして屍を理める。(以下略)



大体以上のごとくであるが、私子平はこの南方系ムスリムの葬式に格別に興味を抱いたものであろうか。当時、私子平は長崎に西洋医学研究のため遊学していた朋友の大槻広沢に黒坊の葬式について尋ねたが、それと若干差異があったので、その方を次のように記述している。



それは屍を水にてよく沐浴せしめその上を木綿にて巻き棺に改めて葬るなり。それより塚に草花を供し手を開きて左右の指の頭を重ねる。これは森島中良が按ずるに仏家にいわゆる未敷蓮華の印象なり。額に押当てること再三、経文の意は迷うことなく浮び給えということになる由。トワンは崇教の辞、アララは鬼神のことなるべし(中略)アララは神仏のたぐいを称する語りなること必せりと。(注・アララはむろん神のことである)



現在の東南アジアさらに中東アラブ諸国から遠く北アフリカの地中海沿岸にまで達する極めて広い範囲におよぶ回教圏の輪郭は江戸時代の前半まではほとんど知られることなく終ったが、後半期の文化・文政の前後になってからこく一部の限られた先進的西洋地理学者の研究の結果その手さぐりの窓口がやっと開かれるようになった。そしておぼろげながらも彼ら進歩的学者の手によって徐々に緩慢な速度ではあるが、主要イスラーム諸国の国名や首都の一部が現代の呼称にほぼ近い表音で誌されるまでに至ったのである。





書名
著者
出版社
出版年
定価
日本イスラーム史・戦前、戦中歴史の流れの中に活躍した日本人ムスリム達の群像
ISBN: 不明
小村不仁男 東京・日本イスラーム友好連盟 昭和63 3800


イスラミックセンターパンフレットのページへ戻る
聖クルアーンのページへ戻る
ホームページへ戻る