第五章
江戸時代(前半期)


小村不仁男著



西川砂見と新井白石の功績

徳川幕府による鎖国政策は二百六十年にわたる幕藩体制を強化する上に多大の効果があったが、他面かっての「天龍寺船」「ご朱印船」や「八幡船」等による公私にわたる海外貿易の道を封鎖せしめる結果になった。



かくて海外事情もようやく疎遠となり、海外知識を吸収する機会も実地に祝祭見聞する手段も暫時、隔絶されるようになった。往年の日本人にとって唯一の海外雄飛の夢も野望も消え去り、わずかに許されたオランダ船の来航という一本のパイプによってのみ海外への窓口が残されていた。その許された日本で唯一の窓口はかつての堺に替わった長崎港であった。このたった一つの開放された開港を通じてヨーロッパ諸国の動静を窺い知り得たのである。この意味において二百数十年にわたる鎖国時代の長崎港のもつ海外情報センターとしての演じた役割は決して少なくなかった。



鎖国会発布後、約二十年で日本では最初の世界地図ともいうべき「万国絵図」がこの長崎で出版された。これは利馬宝(マテリオリッチ)の地図を参考にして製図されたものであると伝えられる。この地図には一応、海外における回教諸国の一部名称も記載されてあって、国外といえば高麗とか唐とか天竺以外は、すべて南蛮ぐらいしか知らなかった当時の日本人にとっては大きな驚きであった。



以前から来往していた旧教系のポルトガルが幕府のキリスト教弾圧政策によって入国禁止の羽目になってから、これにかわって新教系のオランダが海外貿易の一手専売国となって、その舞台に登場した。だがオランダは、自国の版図の一部にインドネシア諸島を領有したが、この属国となったインドネシア領のイスラームやムスリムのことについての知識はなんら日本に伝えなかった。また彼らにとって、それを日本人に伝える必要性も義務感もなかった。ただ交易による利潤追求に専念するのみであって海外への唯一の耳目であり、窓口であった当時のオランダ人からも、日本人は世界三大宗教に一つであるイスラームについての概念や予備知識の片鱗すらも把握することができなかった。このように日本人自身にとってもまた、イスラーム自体にとっても不幸な情勢のときに、日本最初の西洋の地理学者である西川知見が現れたのである。



如見は元禄八年(一六九五年)に出版したことのある「華美通商号」を一三年後に補筆して、増訂版「増補筆夷通商号」を宝永五年(一七〇八年)に再版した。その中に海外回教諸国の国名とそれらの位置、さらに日本からのおおよその距離なども列記したが、それは当時としては出色のものであった。



その中で如見は、この頃にインドを制圧していたムスリム国であるムガール帝国を「モウル」と誌して回教国であると論断している。



さらにその「モウル」の国は、日本から、海上二千八百余里の距離にあってシャム(現タイ)の西北に位し、南天第一の大国なりと記載している。今からおよそ三百年近い以前のことである。



またイランは「ハルシャ」の名称で日本より海上五千里、南天の両辺地即ち西天の内地であり、黄金の大塔ありと述べられてあるが、この黄金の大塔こそはイスラームの象徴ともいうべき先塔(ミナレット)のことであろう。



次にトルコのことを「トルケイン」の名称で日本から海上一万一千二百五十里と書き「ハルシャ」同様、金色織物を産す、と説明されてあるが、これは恐らく有名なこの国の特産物トルコ・カーペットのことを指しているのである。



またアラビアについては「南天竺の西、シャムより三十余里の砂地あり、大風趣きると砂を吹き波のごとし、行旅の人たまたまこれに遇うと砂浪のために埋れる」とある。



最後に、エジプトは「エジット」の名称でこの国に大河あり、ニナ河別名ニロ河とも称すとあるが、これはナイル河のことである。



この当時の日本における世界的地理学者西川知見に次いで出現したのが、新井白石である。白石は知見の回教関係諸般の不足事項を補足修正した。そして彼は正徳五年(一七一五年)「西洋紀聞」を述作した。奇しくも徳川幕府中興の祖と、称せられた将軍吉宗により彼が能免される前年のことである。



白石は従前の漢字訳された地名を片仮名で実地に比較しつつ、「マアゴメタン」はモゴールの教えにしてアフリカ地方、トルカ(現トルコ)もその教えを信奉している。漢字で書く四回の教えが、実はこの「マアゴメタン」のことである。



また「ハ〃シャ」は漢語で波爾斉亜と書いているが、これはむろんペルシャ(現イラン)のことでインディアノ西、アフリカの東にあり天下の良馬を産すとしている。



次にトルコについては、トルコはまたはツルコという。アフリカ、エウパロ、アジアの地方につらなり、国都はコウスタンチンィ・またはコウスタンチノプール(現イスタンブール)のことである。



この頃あたかも旭日昇天のごとき国勢にあったオスマン。トルコ帝国の盛大な状況については大略以下のごとく述べている。



その風俗はタルクーリャすなわち韃靼国にひとしく勇敢敵すべからず、丘ハ馬の多きこと二十万エウパエロの地方はその侵略に堪えずして各国相援けてこれに備う。アフリカ地方ことごとくトルカに属し、東北はゼルコニア(ゲルマンすなわちドイツ)に至り東南はスマアタラ(現スマトラ)に至るという。以上のように当時の極盛期にあったオスマン帝国の領有していた広大なる版図を述べている。



新井白石はこうした地理上における回教諸国の概貌を解説しているのみならず、ここに注目すべきことは宗教的なイスラームそのものについても日本人として初めてその一端に触れている点について達識振りに敬意を表わすものである。



白石が回回教なる宗教が世界の三大宗教の一つであると喝破した最初の邦人としての業績は大きい。彼は「西洋紀聞」中にマアゴメタンは漢でいう回回の教えのことでキリスチャン(クリスチャン)と共に世界宗教の一つとして文中に列記しているのである。



ただし、さすがの博学多識な彼もこのマアゴメタンや回回を漢字で「伊斯蘭」とも片仮名で「イスラム」とも表現していないのは、まだそこまで研究しつくされていなかったのであろう。



さらに回教発祥の聖地アラビア地方が逸脱しているのも不可解である。しかしこの「西洋紀文」より二年後に発表した「采覧異言」の方にはアラビアを「夫方」と称しムハンマッドを国王「謨罕黙徳」と漢字で表現している。この「采覧異言」の方がどちらかというと、その二年後にできた「西洋紀文」より回教の件のついては詳細に描写されている。



一例を挙げれば聖地メッカの神殿やカーバ黒石のことも次のように原文では説明している。「自古置有礼拝寺等分為四方方九十間共三百六十間、皆白玉為柱、中有墨石一片方丈余、寺層次高上如城毎見月初生、皆拝天写呼称揚以為礼。



以上漢文体ではあるが、なかなかリアリズムに冨んでいる一文である。



さて、八代将軍徳川吉宗は自身のことであるが彼はかねて聞く群馬に比して日本在来産の馬が馬格においてすこぶる劣る観があるので、その改良を思い立ち長崎出島にあるオランダ商館の館長から優秀なペルシャ産の駿馬十数頭を享保十一年(一七二五)頃から約十年余りの間に購入した事実があるが、これなどもオランダの商人を通じて曲りなりにも中東イランの事情や産物の一端が吉宗やその側近に判かっていた結果からであろう。





書名
著者
出版社
出版年
定価
日本イスラーム史・戦前、戦中歴史の流れの中に活躍した日本人ムスリム達の群像
ISBN: 不明
小村不仁男 東京・日本イスラーム友好連盟 昭和63 3800


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