第四章
安土・桃山時代


小村不仁男著



祇園祭の鉾に懸けたペルシャ製カーペット

彼我の接触はあったが未だに開花結実せず安土・桃山時代になると、海外方面では十六世紀後半から始まった「和寇」による武力を背景とする私的貿易がどうやら終息をつけ、国内では足利将軍の権勢が衰微し、新しい社会情勢の進化にともない近世封建制度の新形態がだんだん整備され始めた。群雄割拠の国内では、織田信長そして豊臣秀吉へと天下の大勢は移っていったが、海外との交流に於いては、中国や天竺に限られた領域を対象とする時代から一躍ヨーロッパとの接触の端緒が間かれる時代に進んだ。一つは天文十二年(一五四三)八月十二日にポルトガル人の種子島漂着による火縄銃の伝来である。さらにそれから六年後の天文十八年(一五四九)七月三日のフランシス・ザビエルの鹿児島上陸とキリスト教の伝道開始である。この二つの出来事は日本人に強い衝撃を与え、同時に海外への視野もひろがり、ようやく新しい世界観への開眼をうながすようになった。



この時点から徳川幕府による鎖国政簾が実施されるまでの約百年間は、海外にある異国への限りなき憧憬と一種の好奇心から、またそれから受ける実利実益という観点から「御朱印船」が、フィリピンからタイ・安南(ベトナム)、インドネシア・マレーシア地方の諸島に達する新航路を開拓して活発に来往していた。



こうした日本商船隊の南方方面への進出は必然的にジャワ・スマトラ等の現地へ寄港し、そのたびに多くの回教徒をも接触をし、交渉もあったことと想像される。しかし彼らの旅行記や見聞録の中にはそれらしい記事が少しも発見されていないのは、キリスト教のそれが先入生となっておよそイスラームごときに間しては頭から顧慮されなかったためではなかろうか。



とにかく、折角こうした相互の接点をもつ機会に恵まれながらも宗教信仰としてのイスラームにアプローチするチャンスを見逃し亡失してしまったのである。他方、日本へ来航したヨーロッパ船団の水先案内や下級乗組員の中には少からずこれら南方出身の回教徒(ムスリム)も混っていたことぐあろうが、如何せん彼らは高級船貝や乗客である貿易業者より身分が低いため、あるいは彼ら自身が知能程度の低いいわゆる知識階級でない下級労働者であるため、遠路日本までやってきてもイスラームの教えを異国人である日本人に説いたり導いたりする知的能力も精神的意欲も持ち含せなかったのであろう。



仮りに多少その意識がありそれに気がついていたとしてもキリスト教徒であるポルトガル人、イスパニヤ人、オランダ人たち上級船員グループにことさら遠慮気がねしていたのかも知れない。



また天正十年(一五八二)北九州のキリシタン大名である大友、大村、有馬らの諸侯や、それより遅れるが仙台の伊達正宗がローマへ派遣した支倉常長らの親善使節らの一行も、何処かの洋上通過地点でモスクやミナレット(光塔)ぐらいは瞥見しているはずである。



あるいは少しく勘ぐればこの頃中東イスラーム圏にイスラームの強力なる教勢を誇って四隣を威圧していたオスマン・トルコ帝国領の海上線を努めて敬遠して迂回しそれとの接触を故意に回避しつつ一路ヨーロッパへ直航したのかも知れない。




祇園祭の鉾にみられるペルシャ絨緞

イスラームという宗教信仰そのものの交錯は見受けられなかったが、イスラミックな所産として舶来したものに絨緞がある。この絨緞はペルシャ、トルコ、コーカサス製のものだが、これらが六百年もの昔から伝統的に京都の祇園祭で都大路を巡業する「鉾」や「山」の胴懸に使用されている。この豪華絢爛、眼を奪うばかりの絨緞が、安土・桃山の時代から中世イスラーム圏諸国所産のものが使用されていることを知る人は少ない。



だが祇園神社の日本古式に則る伝統的神事祭典にも拘らずこの祇園祭当日における十数基の「鉾」「山」の一大オン・パレットはなんとなくオリエンタルなムードとエキゾチックな情緒の漂うのを見る者をしてそこはかとなく覚えしめるであろう。



この大行進の先頭第一を飾るのが「長刀銘」と古米から定められその美麗な胴懸はペルシャ製とトルコ製の作品である。次の「月鉾」は同じくペルシャ製とコーカサス製で「北魏音山」はトルコ製である。また、京の東山高台守秘蔵の豊臣秀吉鐘愛の陣羽織はペルシャ製で浅緑地の上にライオンや鹿や南方の珍鳥類がデザイン化されているが、戦国時代に多くの武将が着用した「雲龍」とか「旭日昇天」のような日本調のデザインとは、ひと味もふた味もちがった異国趣味と珍し物がりやの秀吉にふさわしい陣羽織である。



こうしたイスラーム諸国独特の特産品は信長・秀吉に限らず、諸大名の中でも特に富裕な周防の大内氏や薩摩の島津氏らを初めとする西南の雄藩豪族たちが少からず愛蔵し、珍重していたのである。



こうした物産品だけの舶来に限られていたかというとそうでもないようだ。近畿以西には、イスラーム民族が多少は住みついていたものとみられる。現に織田信長に召しかかえられて乗馬の轡取りをしていた黒人馬丁は東アフリカのソマリランドあたりから来た人と思われる。恐らく中国人の人買いを通じて堺へ売られてきたものだが、彼がムスリムであったか否かは本能寺の変の際に行方不明になってしまったままなので確証はできていない。



こうした人身売買は当時は盛んであったので南蛮貿易の発展とともに商品ばかりではなく、武家の下僕として南方あるいは西南系の下級ムスリムたちも「輸入」されてきたのであろう。それが有名人でないため記録の上では姓名はむろんのこと、その存在すらも痕跡を留めえなかっただけの話である。





書名
著者
出版社
出版年
定価
日本イスラーム史・戦前、戦中歴史の流れの中に活躍した日本人ムスリム達の群像
ISBN: 不明
小村不仁男 東京・日本イスラーム友好連盟 昭和63 3800


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