第三章
室町時代


小村不仁男著



アラビア人と国際結婚した京の女性

応永十五年(一四〇八)六月二十二日、若挾(福井県)の中長浜に一夜暴風雨にあった二隻の南蛮船が漂着した。



この難破船の中に亜烈進(アラジン卿)というサルタン(首長)一行が日本の国王に献上するための生家一頭、アラビア馬数頭、孔雀二対その他オウムなど、当時としては、たいへん珍しい南海の特産物を積載していた。この南蛮船の亜烈進卿はアラビア人ではなく実は今のマレーシア系の首長でこの船自体もスマトラ島の船であったであろうと推考されている。



ともあれ同船は修理されて翌年十月一日、一年半振りに小浜を出帆して帰国の途についた。日本人としては初めて見た巨象はさっそく京都へ運ばれ、ときの将軍足利義持をして一驚を吃せしめた。恐らくこの象は当時南蛮貿易に従事していたジャワの商人がインドから輸入したものであろう。そしてこの象は応永十八年



(一四一一)二月に義持から朝鮮国王の太宗に献送された。義持が以前この朝鮮から大蔵経をもらった返礼の意味でのプレゼソトであったのかも知れない。朝鮮でも実際に活きている巨象を見たのはこれが最初であった。太宗はこれを大切に飼育していたが日々豆を四・五斗も喰い、その士見物に来ていた人を踏み殺したので、やむを得ず某島に隔離して飼育することにしたという。以上は「李朝太宗実録」に記載されている史実である。



そのほか、この年には漂着船ではなくジャワの船が博多港に入港したという史実もあり、室町時代になって南海水域からの異国船が航海術の発展とともに日本沿岸へも出没し始めるようになる。



ただ南方の船舶や物産珍貨は日本へ渡来して南方イスラーム圏との物質、経済面での交渉は開始されてくるのであるが、宗教信仰を対象としてのイスラームとなるとまだこの時点では日本とは遺憾ながら結ばれるに至らず無縁の状態であった。




アラビア商船ど琉球列島

琉球列島は、アラビア人との交渉については日本本土よりも早かったが、これは地理的位置からみて当然であった。



宋・明時代の中国沿岸の東シナ海に面した要津にはすでにアラビア商人が商業的基盤を保有していたので、そこから一次帯水の海域にある琉球列島に近接を試みんとしたのもごく当然のことである。



「歴代宝案」という史料には、明の宣藻ェ年(一四三三)すなわち永享五年十月にアラビア人阿蒲察都(アブーサット)を使節とする商船隊がジャワ・スマトラ・スンダ等の南方各地で採集した藤木や胡椒などの香料を携行して琉球の中山王を訪問したという記事が掲載されてある。



それらの品々はこの琉球を媒介として日本や朝鮮を相手に転売されたが、当時、琉球列島がそれらの国々への仲継貿易の基地的役割すら演じていたのである。




京に伝わる七百六十余年昔のイラン文の古書

京都の旧家、山田長左衛門邸に伝来されてある古文書「南番文字」は七百六十余年も昔のイラン(ペ〃シャ)文として国の重要文化財指定となっているが、この古文書の来歴ならびにその文意については以下のような経緯がある。



もともとこの古文書は栂尾の名刹、高山寺支院である方便智院伝来の寺宝となっていたのであるが、幕末動乱のどさくさに紛れてこの寺から外部のどこかへ流失してしまったものらしい。



だがそれ以前の縁由については割合はっきりしていて松尾洛西の法華山寺にいた慶政上人が自分とかねて親交のあった高山寺の住職分和尚こと明急上人に対して宋に留学して帰国したときの記念品として贈呈したものと考証されている。



すなわち慶政上人が入宋して各地を巡歴修行中の嘉定十年(一二一七)頃のこと、広州か泉州の港に定泊中の船中で南番人(イラン人)から寄贈を受けたものと判明したが、おそらくこのイラン人も貿易か何かで本国から来航して同地で暫く滞留していた一ムスリムであったのであろう。



このことは、第二次大戦中に、京都帝国大学の総長であった西域史研究の世界的権威、羽田亨博士が明治四十二年(一九〇九)に、まだ二十八才のときに発表された研究の成果として斯界に有名である。博士はこの古文書の所有者である山田最左衛門の祖父永年翁と特別眼懇の仲であったので特に翁に乞われて、今まで長い間にわたり不明であった当時南轡文字とよばれたこの難解なペルシャ文を鋭意苦心のすえ解読されさらに次のように註釈を付記せられたのである。
1. 喜びの世は誰とも永く留ることなし
2. 神はこの日与えて次の日去り給う
3. 現世(このよ)は懐かし、されど我らは立ち別れぬべき外はあらず
4. 人の道を除きては人のものとして後に遺るはなし
5. 最期(いまは)の際に待て暫しのきくものならば
6. おん身見守りて眼を娯(たの)しませてありぬべきを
7. ああされど、この碧空か我れに背きて去りぬべき日は
8. さらば我れはおん身に、さらばおん身は我れに。




真言宗の大本山にイスラムの秘宝が

明の時代に、遺明専使としてかの地へ渡った東洋允澎の著作「東洋允澎入唐記」中に次の記事が誌されてある。すなわち享徳元年(一四五二)三月末にこの東洋允澎らは肥前(長崎県)五島を出航した。彼らが乗船したのは、いわゆる「天龍寺船」であって洛西の天竜寺、大和の長谷寺それに多武峰の妙薬寺の王寺院が合議のすえ幕府(将軍足利義政)に要請してその許可を受け、明へ臓産物(主として金など)や武器(刀槍の類)を輸出する交易船であった。専使東洋一行は同年十月二十日北京に安着して代宗に謁見した。この日たまたま「四回人」も来朝しており彼らは馬二十匹を献納した−伝々、という記事である。



さらにその翌日東洋らは「回回人館」を見学し、梵字に似ているようで、梵字(ぼんじ)でもなさそうな一種異様な字体に接して一同不思議な思いをする。これはアラビア文字であることは疑いないが、この「回回人館」はこの時点よりおよそ半世紀も以前に明朝が開設した「四夷館」のうちの一つで、これはアラビア語やイラン語・ペルシャ語・ウィグル語などを教習する語学施設で、言わば官立の通訳要員を養成する教育機関の一種であったのであろう。



また別項にはそれから日を改めて日本から持参した財宝や物産を献上するときの場面や、賜餐のときの光景が述べられ、日本はじめラマ(チベット)、高麗(韓国)、縫旦四回(トルコ・クタール)女真一旧満州一雲南四川琉球等からの使節が列席していたと誌している。



恐らく日本人の手記による文献上でこの「回回」という文字を使用して現地の模様を伝えたこれが最初の一コマてあろう。



筆者は先年、大和の名刹であり牡丹でも有名な長谷寺の寺宝として、なんとイスラーム・スタイルの玻璃の花瓶が秘蔵されているのを、たまたまその宝物館を見学していて発見し、一驚を吃した想出があった。この長谷寺は申すまでもなく新義真言宗の大本山として世に知られているが、この仏教寺院にある玻璃の花瓶は、他にはトルコのイスタンブールの博物館に所蔵されている物以外には皆無であると承った。それが、如何なる縁由と経路でここまで搬送されたのか一見不審であったが、前述の史料から類推してこの東洋允澎らに随従していた長谷寺の僧侶がこのとき明との交換物の見返りとして自坊に将来したのではなかろうかと推考するに至ったのである。




六百年昔に京で日本人女性と
国際結婚したアラブ人第一号


今から約六百年も昔に京都のど真中にひとりのアラピア人が住んでいた。場所は三条坊門烏丸で、現在の中京区御地烏丸付近にあたり、ちょうど京都市役所から南へ万百メートルあるかないかの近距離のところである。室町初期の将軍足利義満の頃のことで、その名はヒシリと一般に呼ばれていたが、京都五山の一つである相国寺の僧絶海中津らが留学先の中国(明)から京へ連れて帰ってきたのである。永和二年(二二七六)のごとく南北両朝の対立抗争のさ中であった。



彼は日本に入国後に摂津の楠葉つまり今の大阪府下枚方市樽葉在の一日本婦人と結婚して二兎をもうけた。長男はムスルと呼ばれいわゆる日ア混血児である。このムスルとはムスリムかあるいはアル・マウシルの転化ではなかろうか。



さて、ムスルはその後母方の姓を採って楠葉入道西忍と名乗り、次男は民部卿入道と呼んだ。次男には子供ができなかったが、長男のムスルには三人の男児が出生した。



ムスルは義満の次の四代将軍義持に重用された。彼が海外事情とりわけ明の国情に詳しくその上に航海術に精通していたからである。三十六本のをき以来再三にわたり父ヒシリゆかりの明の国に渡航して足利幕府の海外通商貿易の今くいう顧問のような役職に就任していた。



彼は義持将軍の没後隠退してからは大和(奈良県)の古市に転居し文明十八年(一四八六)に、九十三才の天寿を全うして長逝したと伝えられている。以上は「大乗除寺社雑事記」という史料に所載されたものの中からの摘記である。





書名
著者
出版社
出版年
定価
日本イスラーム史・戦前、戦中歴史の流れの中に活躍した日本人ムスリム達の群像
ISBN: 不明
小村不仁男 東京・日本イスラーム友好連盟 昭和63 3800


イスラミックセンターパンフレットのページへ戻る
聖クルアーンのページへ戻る
ホームページへ戻る