第二章
鎌倉幕府時代


小村不仁男著



元の皇帝フビライの使節団中にいた回教徒

鎌倉時代になると、いわゆる武家政治の確立を見るに至り、地方在住の豪族や領主が抬頭しはじめ、かっての宮廷政治からこんどは武力を基盤とする武士たちの地方封建制度に移行するようになった。



しかし彼ら封建諸候たち自身も宮廷貴族たちに劣らず結構異国趣味が旺盛であったので、各大名は自力で対米貿易の開拓に乗りだしためである。つまり從前の公的貿易からこんどは私的貿易により荘園領主や富裕な豪商たちは積極的に通商政策を実施する様相の時代に変容しつつあった。



またこれに伴い中国の航海業者や船乗りたちも南海貿易による多年の体験を活かし毎年のモンスーンの交替期を利用して航行日数と運行の労力をセイブし海上の危険も予防してその安全性と効率性を発揮するようになった。



こうして日本からは砂金を輸出し、宋の国からは銀貨や銅銭を輸入する方式が多かったのでマルコ・ポーロらによって日本の国があたかも黄金郷(ヂバング)のごとく誤解されて西方やモンゴル族の元朝に喧伝されるようになり、これが元帝フビライの日本襲来の直接的な動因ともなったのである。



元寇の役による文永・弘安二度の元軍の敗退により元朝側では報復の意味もあって日本商船の自国沿岸への入港に妨害を加へこれを阻止しようと試みるようになった。



そこで日本の私的貿易者らはその対策として数十隻の船団を組み全員武装して接岸し強行上陸をも敢えて辞せぬようになった。これが世にいう「和寇」のことで、相手国へ恐怖と脅威を与え、沿岸地区の防護を一層厳重なならしめたために、かえって防護の方の効果は余りなかった。



というのはこの和寇の中には源平対立時代以来、その配下となって活動した瀬戸内海すじの河野・村上の一族や筑紫の松浦党らの勇猛なる水軍が参加していたからである。



ちょうどこの頃、東シナ海に面した海港は南海貿易で栄え、殊にその最大の広州などにはアラビア人(一説にはペルシャ人)の蒲寿庚やその兄の蒲寿?らのいる外人居留民区があって「南轡渡来」の珍品奇貨が人目を惹き和寇にとってはかっこうの好餌となったことであろう。



こうして時代が漸次進展するにつれ日本人の関心は、中国本土からさらに南下してフィリピンのルソンからインドネシア・マラッカ、インド・イラン方面にまで深まってきた。



回教圏の東端の一部にわずかながら近接し、その接触が始まったのである。



その後、足利直義が夢窓陳石らと相談して興国四年(二三四一)に天龍寺船を建造し、元の国に派遣したが、こうした動きは南蛮貿易をきっかけとして日本人の関心が回教圏にまで広がってきたためといえよう。




元忠の役と四回炮
使節団中にいた回教徒


文永十一年(一二七四)十月二十日、日本に侵攻した元軍は博多湾であえなく全滅した。元の軍船が「神風」が吹き荒れて海中に沈没したためである。このとき元軍十余万人は、ことごとくその軍船とともに運命を共にした。しかし、元の皇帝フビライはこれにこりず建治元年(一二七五)二月、再び使節を派遣して日本に朝貢を強要した。



使者は全部で五名で同年四月十五日長門国宝津へ上陸した。正使の礼部侍郎杜世忠は元入すなわちモンゴル民族で三十四才。副使の丘八部侍郎何文著は米人すなわち漢民族である。次に三名の随員筆頭は承仕郎(討議官)という職掌にあった撤魯都丁で三十二才のペルシャ人であろう。そして書状官の果は三十二才のウイグル人で、この両者は明らかにムスリム(回教徒)である。そして最後の通訳官である徐賛は高麗人で三十三才であった。



彼ら五名は執権北条時宗の命で鎌倉へ護送され数ヵ月同地に滞留されて後、九月七日五人とも龍の口で斬首されてしまった。現在の藤沢市江ノ島付近である。この断乎たる処刑が第二次元寇すなわち弘安の役の発端となったことは史上に有名である。現在もこの斬首された使節五名の五人塚が藤沢市内の常立寺境内に建立されて遺っており、その碑面には自分たちの故郷や妻子を憶う切々たる哀愁の情をうったえている文容がきざまれている。



こうした使節一行の出身地から推察しても日本へ侵攻した元軍二十余万と呼号する大軍のその中には基幹部隊の元入(モンゴル族)のほか、金入(満州ツングース族)、南宋人(漢民族)、高麗人(韓国)等の占領地区の外人部隊が多数召集されたことは光然であろうが、同様に西域トルキスタン人やウィグル・ハザック族出身のムスリム混成部隊も動員をかけられてこの二十余万人の大軍の隷下に参加したであろうことも考察されるところである。この元朝時代は中国の歴代王朝といっても回教が中国へ伝来してから後のことであるから、唐・栄・元・明・清の各時代の中でも最も回教徒を優遇し彼らを色目人と呼んで適材適所に広く登用した時代であった。



その中でも有名なのは、世祖フビライが、西域(西トルキスタン)の木哈里(ボハーラ)の回教徒出身である阿老風下(アラツディン)と亦司馬昔(イスマイル)という砲術技師を自国のモンゴルへ招請すべく使節を派遣したことである。そして厚遇をもって召しかかえ火砲の製造を命じたといわれる。そのほかにも西域の旭烈(ホラズム=今のイラン東北部でアフガニスタンとの国境地帯)の易司馬因(イスマイル)に命じて重さ一五〇斤の巨砲を造らせて攻城戦に大いに役立たしめたと「元史、工芸伝」の中に記載されてあるが、これらはいわゆる通称「回国炮」(ホイホイパオ)のことであろう。



射程の長短や命中率の可否はともかく、これら西域の回教徒が開発した光時の近代火器は一発発射するごとにその轟然たる砲声と音響は文字通り震天動地の物凄さで、この鎌倉時代の博多湾防備にあたる武士たちのど肝を抜く点においては相当効果があったようである。



したがって元軍の船団が筑紫の海岸近く接岸して船上より放つ「回回炮」の強烈な威力は水際に構築された防壁の石垣ぐらいは容易に破壊できて弓矢の合戦しか知らないその頃の日本の武士たち河野道有・竹崎季長・松浦至情ら猛将の意表をついたわけで、それこそ「神風」でも吹かなければ鎌倉武士団もまさに危いところであった。



ちなみにイスラム・サラセン帝国の首都の一つであるバグダッド(現イラクの首都)が世界随一の人口と繁栄を誇りながらモンゴル遠征軍によってあえなく陥落したのもこの「四回炮」の威力による城壁破壊が大きな原因であった。




江戸時代使用の「貞享暦」は
実はイスラーム暦に由来


世祖フビライは、この回回炮という当時としては最新式の火砲の製法をその頃「色目人」と呼ばれた西域の回教徒から移入したが、その一方では西域のイラン人(当時のペルシャ人)を研究してそれを採用した。



この十三世紀時代はイランではイスラームの文学がいちじるしく進歩していたので、その道の専門家ジャマル・ウッディンに命じて「万年暦」を、ついでクワマル・ウッディンに命じて「回回暦日」を制定せしめた。前者は二一六七年であり後者は二一七九年のことであった。この暦が、中国を通じて伝来し徳川五代将軍綱吉の貞享元年(一六八四)十月にそれまで使用していた「大統暦」を廃止して新採用した「貞享暦」と呼ばれるもので、これは実はイラン人のムスリムが開発したイスラーム暦であったのである。



この「貞享暦」は明治五年(一八七二)十二月三日をもって明治六年一月一日と改正された現行の「太陽暦」が政府によって正式に制定されるまで、広く利用されていたのである。しかし当時の人々はむろんのこと現代人でも「貞享暦」がその淵源をたどれば実はイスラームの暦法に準拠して日月が算定されてできたものであり、明治以前の日本人は皆そのイスラームの恩沢を蒙っていた事実を知る人はほとんどいないであろう。





書名
著者
出版社
出版年
定価
日本イスラーム史・戦前、戦中歴史の流れの中に活躍した日本人ムスリム達の群像
ISBN: 不明
小村不仁男 東京・日本イスラーム友好連盟 昭和63 3800


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