第一章
奈良・平安時代


小村不二男著



初めてアラビア人と接した遺唐使

極東の海上に偏した島国に住む日本人がイスラームという宗教を信奉している回教徒に最初に面接したのは一体いつ頃のことで、それは誰であったのであろうか。現在、はっきり史料として遺されている最古の文献として「続日本紀」の中に「大食国」の文字が見えるが、それが最初であろうとするのが斯界の専門史家の一致した定説となっている。



「大食」とは「大石」「大氏」などの文字とともに、当時の中国で「タージ(TAZI)」ないし「タヂーク(TAZIK)」を広く呼称したときの音訳を適当な漢字にあてはめたのが、そもそもこの名称の起源とされている。(注=現にソ連邦治下の中央アジアにタジック共和国と称するイラン系民族で構成されているイスラーム国家が存在する)



さて、この記事は大唐天宝十二載とあり、唐の第六代皇帝玄宗のときのことであるが、日本でいえば聖武天皇の天平勝宝五年(西暦七五三)に相当し、またイスラーム暦(ヒジュラ暦)では一三五年から一三六年の間に当る。今から逆算しておよそ千二百三十余年も昔のことであるが、ここに出てくる人物は遺唐副使・大作古麻呂で、彼が大食国人すなわち回教徒に会った最初の日本人であると推断される。



もう少し文容を詳記すると、この年の唐朝の正月の拝賀式における玄宗皇帝との謁見式の場面で席順争いが惹起された。すなわち諸外国の使節が列席する席次は首位が大食(アラビア)、次席が吐蕃(チベット)、つづいて新羅(韓国)そして第四番目が日本という序列になっていた。これを見た大作古麻呂は色をなして憤激し、新羅はずっと昔から大日本国へ朝貢している国である。どうして新羅の下位に立つ筋があろうかと抗議した。そこで日本の使節は改めて新羅の上席にランクされだというのである。この史実から推考すると、当時日本からの遣唐使節は前後十九回も実施されているので、それらの使節はその都度、この「大食国」すなわちアラビアの使臣に唐の部長安(現西安)の宮廷で互いに顔を合わせていたものと見られる。



以上は七五三年頃のことであるからこのアラビア人の使節はれっきとした回教徒(ムスリム)である。なんとなればそれは六二二年のイスラームの発祥から百三十年も後のことである。ところが、千四五百年前から来日していたイラン人は未だムスリムにはなっていないが、その後まもなくイスラーム化した国である中央アジアのトカラ(吐火羅)という国から日本へやって来た人たちがいる。それは前記の事項よりも以前のことであるが「日本書紀」の中の「有明記」に以下の内容が記載されてある。



トカラ(吐火羅)国の勇二人文四人が奄美大島あたりで難破したすえに筑紫の海岸に漂着した。有明天皇の白雉四年(六五三)七月三日のことである。このトカラ国とはトカレスタンすなわち今のイランの東北角でアフガニスタン西北部の国境線に沿うあたりである。



では、この頃のイランの状態はどうであったか。新興勢力アラブ・サラセン軍の破竹の勢の遠征軍に圧倒されたイランのササーン王朝最後の皇帝ヤズダギルド三世は、その力戦も空しく六四一年ニハーワンドの一戦で完敗し遂にササーン王朝はここに滅亡した。



こうしてイスラーム・サラセン軍の西方よりの侵略によりトカレスタン地方を含むイランの人たちは東へ東へと移動して唐の部長安まで亡命して来た。その中の数人が来日したものであろう。



ともあれ、彼らは未だ一個のムスリムとしてイスラームにはこの時点では帰依していなかったかも知れないが、大作古麻呂の一件より百年も前に程なくイスラーム国に改宗するイランの東北部トハリスタンからはるばる日本の上を最初に踏んだ人たちであった。



またこうした実例は「続日本紀」や「日本書紀」のような、はっきりとした史料文献上には見られないが最近の専門学者の研究の結果によれば、この時期の前後に建立された大和の飛鳥寺やその当時に掘られた大和の池の形が円形でなく方形式の多いことから類推して、イラン人の造形技術によるものと論考されているこうしたことからも当時イランから中国を経由して来日し、日本の造形文化になにがしかの寄与をした人がかなりあったのではないかと推断される。




鑑真和上に随行した回教徒

次は奈良に唐招提寺を建立した唐の高僧、鑑真が来日に際し帯同した随員三名の中にムスリムらしい人物が一名いることに注目したい。「唐大和上東征伝」という史料中の天宝十三蔵(七五四)の記事にある胡人の安和宝である。



もともと中央アジアのブハーラー出身者が中国では漢字で「安」の字をよく名乗るケースが多い。このブハーラー地方は史家の研究によれば六七四年以来しばしばイスラーム・サラセン軍に侵攻され七一〇年にはアラビアの有名な猛将クタイバ・ビン・ムスリムによって同地方は占領されモスク(回教寺院)も各所に創建されていたという。



したがってこの安和宝も、この頃にはムスリムになっていた可能性が強い。ではこの随員一二名の中の他の二名はどうであったろうか。



同伝によると、崑崙国人の軍法刀と謄波国人の善聴の二名となっている。前者は学者の研究によれば今のマレーシア地方で、後者は今のベトナム(インドシナ)にだいたい比定されている。だがマレーシア方面へのイスラームの教勢が浸透し始めたのは、ずっとこれより後世のことで、ヒンズウ教や仏教の勢力を駆逐して回教が定着したのは十五世紀頃であるし、後者は当時はむろんのこと今でもムスリムは割合い少ない土地である。



したがってこの鑑真和上の随員三名のうちにムスリムらしいと思われるのは安和宝ひとりだけということになる。



さらにこの「続日本書紀」の天平八年(七三六)十月の頃に「波新人李密医等授位有差」とあるが、この人もペルシャ人のムスリムではないかと想定されるのである。



もうこの時点ではペルシャの国はこれよりおよそ百年近くも以前にイスラムに改宗せしめられているから史家によってはその研究の結果、かれは多くの回教徒中わずかに残されたマニ教徒ないしゾロアスター教(拝火教)徒か、ないし仏教徒ではなかろうかと、種々の関係史料を物色採用研究してそれらを考証されている。したがってこの李密医をただちにムスリムであると即断はできないがその可能性は大いにありうるのである。




仏教寺院にも回教圏の物産が

奈良時代における物資による西域イスラーム圏との関係はどうであったであろうか。



先にも述べた「唐大和上東征伝」によると鑑真和上が天宝九載すなわち七五〇年に日本へ渡航するに先立ち、当時世界でも最も殷賑で繁栄していた中国の貿易港である広州や揚州を訪れ、いろいろな種類の珍奇な多くの産物を購入している記事が兄える。それらは日本へ米朝する際の「おみやげ」として奈良の都まで将来されたのではなかろうか。



その中の一例を挙げると香料だけでも十数種類がありたとえば龍脳香、安息(ペルシャ)香、零陵香、青木香(木香)、薫陸香(乳香)等々でその多くはイランあるいはアラビアなどイスラーム圏における物産が多い。



しかもこれらイスラーム圏の所産が奈良の古寺に今日も見られる密教的儀礼や儀式・密教授戒の際の法具等に転用され活用されているのも皮肉というか奇妙というべきか、ここにも遠く千年むかしの歴史の断面が窺えるのではなかろうか。



ちなみにイスラーム圏からはじめて来た玻璃器を、仏教寺院のみに限らず奈良朝から平安朝時代における宮廷貴族たちがすこぶる珍重し、鍾愛するところとなったのは、今日正倉院御物として大切に温存されている西域すなわちイスラーム諸国製の幾多の宝物類を見ても判然とするところである。




棉種を伝えた天竺(パキスタン)人

桓武天皇が京都を平安京として定めた五年目の延暦十八年(七九九)七月、突如として三河国(静岡県)の海岸に一小船が漂着した。今の陽暦でいえば八月下旬か九月初旬に当るからちょうど台風シーズンに遭遇したのであろう。



この船中にたまたま崑崙人が乗り組んでいた(一説には天竺人とあり)が、この人たちが日本に初めて綿種を伝えた−と、「日本復紀」に誌されてある。この崑崙人が前に述べたマレーシア系であるか、また天竺人かインド(今のパキスタンを含む)人であるか確証はできないが、綿種とあるから綿の多産地である今のパキスタン方面からの漂着民であったかも知れない。



もしそうだとすればアラブのイスラーム遠征軍はインダス河流域をこの時点より約八十年も前に占領しているので彼らはムスリムであった可能性が強い。




宮廷雅楽と西域の楽器

中国で盛唐時代に盛んに行われた音楽や舞踏の中で「唐国楽」はサマルカンド、「安国楽」はブハーラー、「亀弦楽」はクチアそして「高昌楽」はトルファン、「疏勒楽」はカシュガルの、それぞれの国の昔楽であるがそれらはいずれもペルシャの音曲であった。



これからみても、いわゆるペルシャ系の胡国舞楽がいかに多く中国本土へ伝来されているかが判明されるのである。



余談ではあるが筆者は今から十数年前に全く偶然の機会に郷里京都の八坂神社境内の歌染殿で御神前に奉納される「蘭陵王」とか「鉢頭」とか「払林」とか称する雅楽をまのあたり鑑賞したことがある。たそがれちょうど十一月二十三日の旧新嘗祭の黄昏時で、その哀調切々たる一種エキゾチックなリズムは憂愁感に溢れた西域ならではの雅楽であったことでとくに印象に残っている。



ともあれこのときふと筆者が連想したのがほぼ四十五・六年前に内モンゴルの一角で遠くトルキスタンから亡命中のウィグル族の志士たちがつれづれに奏でるエキゾチックな音曲に術碗としていたことである。



ちなみに「払林」とは、当時東ローマ帝国に所属していた現在のシリア地方のことで今でいうシルク・ロードの最西端のターミナルにあたるが、前述のうち幾曲かは干余年後の今日でも日本の宮廷雅楽の一部として採りいれられ脈々と伝承されているのである。



楽器類を正倉院御物中に見てみても琵琶・阮咸等イラン。イスラーム系のそれらを多く発見することができる。ことに五弦琵琶の腹板に大きくくっきりとデーツ(ナツメ椰子)の樹が描かれているのは注目に価する。この樹木はイラク始めアラブ圏特有の植物である。



奈良の平城京を中心とする天平時代はあたかも西方ではかの世界文明史上に有名なサラセン文化興隆の最盛期にあたりイスラームの教練がこのアラブを軸心にして東西両陣にもっとも伸張し拡延した時代でもあったのである。



したがってなんらかの形でこうした楽器のモチーフとなって文物を通じてイスラーム諸国との影響が充分に感受されるのである。現にこれら平安朝時代に日本に伝来したといわれるタージー唐の「五弦琴譜」の中に「大食」(アラビア)調の楽譜が掲載されているのも、前述した胡楽とともにそれらの明白な証のひとつであろう。




西域地方の胡国の特産

この奈良平安朝時代にもっとも関係のあった胡人および胡国と、日本との触れ合いはどのようであったであろうか。



さきに「唐大和上東征伝」中に唐の高僧鑑真に随行した弟子の一人に「胡国人安和室」のいたことはすでに誌した。ではいったい「胡」とはどこの地方を指すのであろうか。これは現在でいえば中央アジアの東西両トルキスタン地方を基軸に東は旧満州の一部西はイランの一部を含む広範な地帯を漠然と「胡」と称していたらしい。



したがって一般に「西域」と呼称していた領域とほぼ同一地帯であって、この胡国の特産物とされていたゴマ(胡麻)キュウリ(胡瓜)クルミ(胡桃)などの農産物の名称に「胡」の字を冠してその起源地を表明しているのを兄でもこれが容易にうなずけるであろう。



またこうした日本へ渡米した野菜や果実類の名称のみに限らず腰かけたり、あぐらをかくことを胡床とか胡坐という漢字をもって表現しているのを見てもこれらはもともと胡国すなわち西域の習俗から由来していることが判るというものである。



このような諸点から観ればイスラームという宗教信仰は別として千年以上も昔から日本はいろいろな点で西域イスラームの国々と交渉や接触があったことを知ることができるであろう。




ソグド(粟特)語の知識と七曜表

イスラーム調の音楽についでわれわれが注目しなければならないのは、この平安朝時代の文献である「御堂関白記」「兵範記」「水左記」等に日曜日から土曜日よまでに至る七曜表が記入され、それぞれの曜日の訓み方を漢字をもってソグド(粟特)誌の音訳が付せられていることである。



もともとこのソグド(粟特)語なる言語は、この方面の言語学者の研究によるとイラン語系の一分派語であるとされている。
(日曜日)密−MIR
(月曜日)莫−MAQU
(火曜日)雲漢−WUQAN(以下略)の如くである。そしてこのソグド語は現在のソ連領中央アジアのサマルカンドからボーハラを含む一帯の中央アジア地方で話され、時代的には中国の五胡十六国時代にその起源をもつ古い言葉であるとされている。当時における商業民族としてのソグド人は有名で、その発祥地サマルカンドあたりから、すでに現ウイグル自治区のロブ・ノール(羅布湖)を経て甘粛省の涼州付近までその商業路を開拓していたといわれ、その頃の彼らは從前から信仰していたマニ教からイスラームにすでに改宗していた種族だとされている。



こうした関係でこのソグド語は当時一種の「国際語」のような役割を演じ、インド発祥の仏典が本来ボン語で誌されていたので、仏典の中には一旦このソグド語に翻訳してから改めて漢語に重訳されたものも少くないと、最近になって判明されたくらいである。



したがって、平安朝時代に入唐求法した仏教僧侶の中には唐の五台山や有名な古寺名刹を巡礼したり、唐の高僧たちについて修行している間にそのかたわら西域の言葉であるこのソグド語も勉強して帰国したのではなかろうか。ちなみにソグドの原意はイラン語で「光明清浄」という意味だそうである。



そもそもこの七曜そのものがイラン系の所産、であれば日本の入唐僧もイスラームそのものに対する経典や教義の直接的な認識や理解をするまでには至らなかったが、このソグド語を通じて前記七曜表のごとく多少の利点や余恵があったことも事実であろう。




双六(チェス)や打球(ポロ)もインドやイランから

宇多天皇の寛平六年(八九四)遺唐大使に任命された菅原道真の進言によって奈良朝時代以来の慣例となっていた遣唐使制度が廃止され、以後わが国は一時的に村中国との文物の流通が壮絶ないし沈滞してきた。しかし中国人自身の南海貿易によってインドやアラブ方面所産の珍奇な物資が広州や楊州を仲継港として日本にもたらされた。



この頃には中国はすでに唐の代から宋の代に移り平清盛らはこの宋とみずから日宋貿易の道を開き、宋を通じて間接的ではあるがイスラーム圏よりの若干の文物も日本へ招来された。



卑近な一例を挙げると、室内遊戯の双六や戸外ゲームの打球の類はインドのチェスやイランのポロがもともとその発現の地であって平安時代後期の優雅な宮廷貴族たちはこうした一種の異国趣味の遊びに打ち興じたのである。



その他いま現存してい・る物の中では平清盛がみずから開拓した対米貿易によって日本へもたらしたサラセン式偃月刀スタイルの宝刀が巖島神社の宝物殿に秘蔵されてある。この剣は日本吉来の固有の刀剣類とはまた趣を異にする一種のアラビア・サラセン的な情緒と形態をもつユニークな秘剣のように感受される。こうして時代が進展するにつれて西域方面からは陸路「シルク・ロード」を通じて東灘しまたアラブ圏からは海路「南海香料の道」をたどってイスラーム関係の文物も緩慢ながら徐々に日本へ伝来されるようになった。



そして奈良朝時代においてはそれらを受容しあるいはみずから将来した品であるにも拘らず、ただ当時としては単に珍奇てがって今まで見たこともないという逸品としてそれらを珍重するに過ぎなかった。



だが平安朝もだんだん後半期になるとイスラームという宗教信仰に対する知識や概念は依然としてあい変らず無知蒙昧であったにせよ彼らの海外への視野がわずかに開けはじめ、奈良時代におけるそれらの人たちよりも西方の輪郭もそれらの品々を通じておぼろげながらも浮き彫りされるように進んで来たのである。





書名
著者
出版社
出版年
定価
日本イスラーム史・戦前、戦中歴史の流れの中に活躍した日本人ムスリム達の群像
ISBN: 不明
小村不仁男 東京・日本イスラーム友好連盟 昭和63 3800


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