イスファハーンの光輝
十七世紀サファヴィー朝社会の縮図


華麗なるイスファハーン

永田雄三、羽田正共著




シャルダンのイスファハーンへの旅



チャルディラーンの戦いからおよそ一五〇年後の一六七三年六月、突兀たる岩山と乾いた土くれの荒野が果てしなく続くイラン高原を、南へ向かう旅人の一団があった。彼らは皆同じようなペルシア風の服装をしてはいたが、注意深い人は、彼らのうちの三人の身のこなしや言葉が他の人びととは異なっていることにすぐに気づいたろう。この三人のフランス人のうちの一人、まだ三十歳の若者こそ、後に有名なペルシア旅行記を出版することになる宝石商人シャルダンだった。彼は第一回目の東方旅行の折(一六六五−六九年)にもペルシアを訪れており、これが二度目のイラン高原の旅だった。



彼らが目指していたのは、ペルシアの王都イスファハーン。生き延びたサファヴィー朝の当時の都である。王やその周辺の人びとに売るための宝石や時計、貴金属製品を多数、荷物として運はんでいたシャルダン一行の一番の心配は追い剥ぎや盗賊だったが、このころのペルシアの街道は、ヨーロッパからの旅人も驚くほどに治安がよく保たれ、旅人が無料で一夜を過ごせる隊商宿(キャラヴァンサライ)の整備も行き届いていた。



十六世紀の末から四〇年以上にわたった第五代王アッバース一世の治世(在位一五八七−一六二九年)後半以後、対外戦争は何度かあったものの、国内が戦場となることはなかった。これだけ長い期間この地域で戦乱が起こらなかったのは、十三世紀初めのモンゴル侵入以来絶えてなかったことで、人心も比較的安定していたのである。



イスファハーンは、このような十七世紀の「ペルシアの平和」を実現したアッバース一世が一五九七年に都として定め、以後十八世紀の前半にサファヴィー朝が滅亡するまでの一三〇年近く、この王朝の中心都市として大いに繁栄した。最盛期の人口は約五〇万。世界的に見ても、この当時五〇月以上の人口を有する町は、ロンドン、バリ、江戸、北京、それにイスタンブル程度で、十七世紀の世界では有数の大都会だった。



無事にイスファハーンに到着したシャルダンは、その後この町で少なくとも三年ほどの時を過ごし、本来の目的である商売に精を出すとともに、すでに一回目の旅行の時にオランダ人の友人とともに作っていたメモを墓に、「ペルシアの都イスファハーンの描写」と題する詳細な報告をも著した。この貴重な報告には、イスファハーンの町に建てられた王宮、モスク、マドラサ(学院)、聖廟、邸宅などの建造物とそれにまつわる逸話、王族や宮廷に仕える人びと、町の名家や一般庶民の生活、慣習、風俗に関わる描写が、一外国人の手になるものとは信じられないほどにぎっしりとつまっている。シャルダンが残したこの詳しい記述を他のヨーロッパ人の旅行記やペルシア語の史料と比べあわせることによって、私たちは当時「イスファハーンは世界の半分」とうたわれるほどの繁栄を誇っていたこの町について多くの事実を知ることができるのである。ここでは彼の描写を主な資料として用いながら、この前近代イスラーム世界有数の大都市イスファハーンを紹介することにしよう。




町の概略



地図を見ながら、まずこの町の構造を簡単に説明しよう。十七世紀後半のイスファハーンの市域の主要部分は、イラン高原の川としては例外酌に水量の豊かな、ザーヤンデルード(生命の川)と呼ばれる川の北側に広がっていた。町全体は、サファヴィー朝がこの町を都とする前からすでに存在していた旧市街と、アッバース一世以後に建設が進んだ新市街という二つの部分に分けて把握すると分かりやすい。



地図上で、北東側の破線で囲まれた地域がほぼ旧市街にあたる。破線は十世紀後半に建設された市壁の位置を示している。この地区にはたくさんの折れ曲がった道や袋小路が見て取れるだろう。それだけ多くの住居が密集していたことを示している。



これに対して、南側から南西側が新市街である。チャハールバーグと呼ばれる大通りが川の商まで一直線に延びている。この通りが新市街の中心である。新市街には直線の道が多く、道と道の間隔が開いている。これはこの地域の住宅の規模が大きいこと、住宅以外に庭園などの緑地も多かったことを示している。



旧市街と新市街の接点にあたる場所に長方形の広場がある。これが「王の広場」で、町全体の「へそ」にあたる。サファヴィー朝の王やその一族の居住する王宮地域は、この広場の西側にあり、塀に囲まれていた。



新市街は一都、川の南まで広がっていた。チャハールバーグ大通り沿いには王や貴族たちの庭園が並んでいた。また、川の北側のムスリム居住区から隔離された形で、ジョルファーと呼ばれる地区には、キリスト教徒のアルメニア人、そのさらに西のゲブラーバード地区には古代ペルシア以来の宗教であるゾロアスター教を信じる人びとが集まって住んでいた。



町の概略が頭に入ったところで、もう少し詳しくシャルダンが訪れたころの様子を再現してみることにしよう。




劇場空間としての「王の広場」



「王の広場」から話を始めよう。ここは、アッバース一世が都をこの町に定める以前は、馬場と青空市に便われる町はずれの蒙っぽい広場に過ぎなかったが、その西側や南西側に王宮地域や新市街が建設された結果、町の中心広場としての機能を果たすことになった。それにふさわしい装飾が施されたことは言うまでもない。一東西一八〇メートル、南北五五〇メートルの巨大な空間の四周を二層のアーチ式回廊が取り囲み、その表面は青、黄、赤などの彩紬タイルを使った美しい幾何学模様の装飾で覆われた。四辺の中央には、それぞれ人の目を惹く大建造物が建てられた。東のシャイフ・ロトフアッラーのモスク、王宮への入り口となる西のアリ・カブ門(トルコ語で「至高の門」の意)、北の大バーザールへの入り口の大門、そして、南の「王のモスク」である。



今日に残る広場も、基本的な大きさは往時と変わってはいないが、広場の中央に噴水のある池や花壇が作られ、東西方向には道路が貫通しているため、全体としての印象はかなり統一を欠くものとなっている、しかし、元来の広場の内側には、その内局部に位置する幅二メートルの運河と、岸辺のプラタナスの並木、それにポロ競技のゴール以外に何もなく、ただ砂敷きの広大な空間だけが広がっていたはずである。公の行事が行われる日に広場を訪れた人は、その途方もない広さに驚嘆するとともに、周囲を取り巻く二層のアーチの連なりに心地よいリズムと統一性を感じたことだろう。



この広場では国家の儀礼がしばしば行われた。広場の西側にあるアリ・カプ門の前には外国との戦争で獲得したいくつもの砲門が誇らしげに飾られていた。門の楼上にはバルコニーがあり、そこから広場を見下ろすことができるようになっていた。王は外国からの使節をしばしばそこで迎え、使節がもたらした贈り物が広場で披露された。広場でポロや碗撃ち(高い竿の上に置かれた碗を撃つ競技)などのアトラクションや閲兵式などの式典が行われる時にも、王はこのバルコニーに姿を見せた。この門の前には処刑された罪人の死体がさらされたりもした。また、この門の敷居は聖なるもので、ちょうど日本の神社仏閣のそれのように、決して足で踏んではならなかった。王から格別の恩寵を賜った臣下の者たちは、この門まで出向き跪いて敷居に口づけをすることになっていた。



新年の祝いや使節の歓迎のために、広場を囲む回廊の前面に小さなランプが灯されることもあった。その数五万ともいわれる無数の小さな光によって浮かび上がった夜の広場の美しさはまた格別だったに違いない。電気がまだなかった当時としては、この光のページェントはたいそう賛沢なパフォーマンスだった。



広場の東と南に建てられた二つのモスクは、その大門やドームが青を基調とした彩釉タイルの模様で華麗に装飾され、広場全体の美観の向上に大いに貢献していた。とりわけ、アッバース一世の命によって建設された「王のモスク」(現「イマームのモスク」)は、その巨大な建物の表面全体が幾何学模様の美しいタイルで覆い尽くされ、中庭に立った人はその美しさに圧倒される思いがしたに違いない。この二つのモスク以外に、広場の回廊沿いにはいくつかのマドラサが建てられ、学生たちが生活を共にしながら、教授から『コーラン』の教えやシーア派イマームについての伝承、それにイスラームの法学などを学んでいた。




賑やかな「王の広場」の回廊と露店



このように「王の広場」は、国家の公式行事が行われる政治的な場であり、宗教・文化などの機能をも併せ持った複合的な空間だった。それと同時に、普段は市民のための一大商業空間としての役割をも果たしていた。広場を取り囲む回廊はそのまま工房やバーザールとなり、職人が仕事をし、できた品物をその場で売りさばいていた。シャルダンは事細かにバーザールの職種を記録している。文房具屋、長持職人、馬具商、綱職人、轆轤師、靴屋、ボタン職人、香料簡、ジャム売り、薬種蒔、古着商、惣菜屋、鋳物屋、武具屋、金細工師、宝石細工師、などである。彼らはバーザール内でそれぞれ職種ごとにまとまって店を出していた。



回廊にはこれらの店以外にいくつかのコーヒーハウスもあった。ペルシアでは、コーヒーはオスマン朝やエジプトなどと比べるとだいぶ遅れて、十七世紀の初めになって知られるようになったが、いったん導入されると瞬く間に広がり、ちょうど建設が進んでいた「王の広場」にもコーヒーハウスが作られたのである。これらのコーヒーハウスでは、男たちが高い吹き抜けの天井の下のクッションにもたれて、咳づくりとコーヒーをすすり、さまざまな話に打ち興じた。詩人が集まって詩会が開かれることもよくあった。



公式の行事がない目は広場それ自体も露店で埋め尽くされた。金物商、古物商、古着商、各種の家畜商、家禽商、指物・大工用品売り、干し果物売り、綿糸売り、綱売り、帽子売り、フェルト売り、馬具商、毛皮商、綿打ち職人、鍋釜屋、両替商、薬種蒔、果物屋、八百屋、肉屋、料理屋。シャルダンによると、この広場は「私が知る限り最も多くの品物を扱っており、まさに市場の中の市場」だった。



広場はまた、娯楽、気晴らしの場所でもあった。軽業師が宙を舞い、動物使いや手品師が巧みやしな芸を見せた。講談師の朗々たる声や香具師の威勢の良い声が響いた。




大バーザール



広場の北側には、大バーザールへの入り口の門があった。この門を入ると小さなドームが連なった屋根に覆われたバーザールが旧市街の中心まで延々と続いていた。バーザールについて、シャルダンは次のように言う。



この町のバーザールでは、ひどい人混みにいつも出くわす。あまりの人混みに、騎乗の人びとは雑踏をかきわけて進むために、従者たちに先払いさせるほどである。ともかく、いたるところで押しあいへしあいしているのである。



現在もバーザールの混雑は往時とさほど変わらない。バーザールの細い道では、うかうかしていると太ったおばさんに突き飛ばされる。しかし、サファヴィー朝時代のイスファハーンでは、いくら混雑していても、女性に突き飛ばされることはなかっただろう。当時、買い物は男の仕事であり、女性たちは家にとどまっていたからである。「女性は夫以外の男性の目には触れない方がよい」というイスラームの伝統的な教えが力を持っていたのである。



バーザールの道沿いには多くの隊商宿があり、ペルシアの国内や外国から運ばれてきたさまざまな荷物がうずたかく積み上げられていた。卸売りの商人が小売りの商人に品物を売るのはここだった、これらの隊商宿は、方形で中庭を持った二階建ての建物で、一階が倉庫、二階が商人の事務所や宿泊場所になっていた。現在でもこの地区には多くの隊商宿が残っているが、薄暗いバーザールから一歩隊商宿の中庭に入ると、光があふれ、木々の緑がまぶしい空間が現れ、噴水が心地よい水音をたてている。中庭形式の建築の妙である。遠くから荷を運んできた商人たちにとっては、何ものにもまさるオアシスだったろう。当時のイスファハーンでは、インド人やアルメニア人の商人が「王の広場」に沿った立地のよい隊商宿を占拠しており、そこで綿織物や毛織物、それにインド産の砂糖、インディゴ(青色の染料)、タバコなどが取引されていた。このような大規模な隊商宿には、両替商や金貸しの事務所が置かれていることもあった。ペルシア各地からの商品は、それぞれ地方名のついた隊商宿に運び込まれた。同じ地方出身の商人は、同じ隊商宿にかたまって商売を行っていたのである。



バーザールの中には、ほかに小さなモスクやマドラサ、それに公衆浴場もたくさんあった。イスファハーンやペルシアのみならず、イスラーム世界では、モスクなどの宗教施設とバーザールなどの商業施設が対になって建設されることが非常に多い。これはワクフと呼ばれる慈善の制度のつとが確立していたからである。イスラームの教えが勧める喜捨の精神に則って、自分の財産をモスクやマドラサなどの宗教施設の建設に充てようとする篤志家は、単にこれらの宗教施設を建てるだけではなく、しばしばそのそばにバーザールや隊商宿、公衆浴場などの商業施設も同時に建設した。バーザールの店舗や隊商宿の部屋の賃貸料、それに公衆浴場の入湯料などからあがる収益を宗教施設に寄進し、その運営に充てるためである。このような仕組みをワクフ制度といい、この制度が、商業施設と宗教施設が渾然一体となったイスラーム世界に独特のバーザールの空間を生み出したのである。




旧市街と「古い広場」



「王の広場」よりも北東側、すなわち大バーザールが延びている方向が、アッバース一世がこの町を都にする以前から存在していたいわゆる「旧市街」にあたる。一般住民の居住区である。この旧市街を囲む土でできた市壁は、当時すでに建築後六〇〇年以上を経て古くなり、あちこちで崩れていた。家や果樹園の壁となっている部分もあり、町を守るための壁としてはほとんど役に立たない状態だったが、王朝政府にはこの壁を修復する意図はまったくなかった。当時の町はすでにこの壁を越えて大きく広がっていた。



旧市街には細く折れ曲がった道が多く、その道に接して左右に連なる住居は、焼き煉瓦や日干し煉瓦を積み重ねて建てられたため、高い建物はほとんどなかった。石を使った高層建築が多く建てられていたシリアやエジプトとは、町全体の景観がかなり異なっていたはずである。これらの住居は、そのほとんどが中庭形式で、道に面した部分には無愛想な壁と扉だげしかなかったが、中に入ると、明るい中庭に噴水や池が設けられ、木々や草花が植えられていることも多かった。バーザールで働く商人や職人はほとんどこの旧市街に住んでいた。当時のペルシアでは、職住分離が原則であり、商人や職人は日中は自分の店や工房で仕事をし、夕方になると自宅に戻った。人びとがいなくなるとバーザールに入るための扉が閉められ、昼間とは対照的に、ときどき夜警が見回る以外は、バーザールの中は無人となった。



この旧市街のほぼ中央に「古い広場」と呼ばれる一角があった。「王の広場」から続く大バーザールの終点にあたる。古くは相当広い空間を持った広場がそこにあったはずだが、すでに十七世紀にはその空間のかなりの部分が、常設の店舗によって占められるようになっていた。同じ広場とはいっても、王宮に近く、さまざまな公式行事が行われる表玄関的な「王の広場」とは異なり、こちらの方はイスファハーンという町の勝手口のような気軽さ、親しみやすさを持っていた。広場とその周辺では、「王の広場」のまわりと同様、人びとの生活に必要なありとあらゆる品物が売られていた。生きた鶏や羊、野菜、果物などの生鮮食料品をはじめ、さまざまな布地、金属器、陶器、香料、荒物……。



また、この界隈にはコクテールと呼ばれる一種の麻薬を飲ませる茶寮や、美少年に客を取らせる置屋、娼婦宿などいかがわしい店が軒を並べてもいた。コクテールとはけしの樹液を濃縮した液体で、常用すると中毒に陥り、最悪の場合は死に至ることもあった。飲むと、ちょうど、アルコールで酔ったような状態となり、コクテール茶寮では泣いている人、笑っている人、夢見る表情でぼんやりしている人など、あらゆる姿態の人びとを見ることができたという。その意味では、こういった茶寮は公には酒類の飲用が禁じられているイスファハーンの町において、一種の居酒屋的な役割を果たしていたとも言えるだろう。また当時は、上は王侯貴族から下は庶民に至るまで美少年を愛でる風が盛んで、美少年両がたくさん描かれ、美少年の置屋は大変な繁盛だった。



もちろん、この「古い広場」周辺は単なる繁華街、歓楽街だったわけではない。広場の北側には町一番の古さと格式を誇る金曜モスクがあり、多くの人びとが礼拝に訪れていた。このモスクの主要部分はすでに十二世紀中には建設されていたが、サファヴィー朝の時代になってからも何度か、王の命による修復や改築が行われていた。「王の広場」に華麗な「王のモスク」が建てられてからも、この金曜モスクはその重要性を失わなかった。



また南側には、イスファハーンの人びとの信仰を集める聖者廟(イマームザーデ)があり、お詣りする善男善女が跡を絶たなかった。不妊が治癒するという言い伝えがあり多くの女性が参詣していたモスクの塔も、この広場からそう遠くないところに位置していた。バーザールの店と店との間には、時に見逃しそうになるほど小さなマドラサへの扉があり、そこを入ると内側にはバーザールの喧噪が嘘のような静寂の空間が広がっていた。信仰や学間の世界が商業の世界と併存していたのは、「王の広場」周辺と同様だった。



きわめて庶民的な界隈ではあったが、ここは古くからのイスファハーンの中心だったため、この町に代々続く名家の広大な屋敷も点在していた。この町に住むサイイド(預言者ムハンマドの後裔)全体の元締めであるシャワジャハーン家、十七世紀には宰相など国家の要職に就く者を輩出したフラファー家など。このあたりは根っからの「イスファハーン子」が住むイスファハーンの中のイスファハーンだったのである。




王宮



「王の広場」の西にあるアリ・カプ門を入ると、そこは王やその一族の住む王宮地域だった。王宮というと、ちょうどこのころ建設が進んでいたバリ郊外のヴェルサイユ宮殿や、清朝の康煕帝が住んでいた北京の紫禁城のような豪壮な建物を想像する人が多いだろう。しかし、塀に囲まれ、四つの門を持っていたこの王宮地域には、王宮という言葉から想起されるような大建造物はなく、その敷地の大部分は庭園だった。これらの広大な庭園の中に、王が外国使節を接見したり、宴会を催したりするための東屋がいくつか点在していた。今日まで残るチェヘル・ソトゥーン宮はそのうちで最も大きな建物である。



王や宰相のための特別の執務室といったものはなく、王の御前に宰相をはじめとする高級官僚が集まって開かれた会議も、このような東屋の中に設けられた噴水のそばや、庭園に張り出したバルコニーで行われていた。そこではなかばおしゃべりのような形でお互いの情報や意見が交換されるだけで、実際の仕事は宮廷を退出した後に高官たちの邸宅で行われるのが普通だった。今日の日本の霞が関のような官庁街は、王宮地域にはもちろん、町の中にも存在しなかったのである。



王自身やその妃たちが住む後宮はいくつかの建物からなっていたが、「賛を尽くした」という言葉で表現できるような豪華で大規模な建造物はなかった。天幕で暮らし、移動を常とするトルコ系遊牧民的な生活に馴れ親しんでいた歴代の王たちは、豪華な建物に定住したいという欲求をあまり持ちあわせていなかったようである。彼らにとって建物以上に重要だったのは、水と緑だった。この二つは砂漠の多いイラン高原では私たちが想像する以上に貴重なものである。その意味で、人工的に掘られた池や、小川が流れ、緑あふれる庭園こそが王たちの最高の賛沢だったのである。



これら主要な施設のほかに、王宮地域の中には、王が臣下や使節に与える賜衣を製作し、収納しておく工房や図書館、種々の食料、飲料、調度品や宝物を収蔵しておく蔵などいくつかの建物が建てられていた。




新市街



「王の広場」から見て西方、王宮の裏側にあたる場所に「帝国門」という門があり、そこから南へまっすぐにチャハールバーグ大通りが延びていた。両側にプラタナスの並木が植えられたこのうが通りの中央には水路が穿たれ、ところどころに小さな滝や噴水、池が設けられていた。この大通りはザーヤンデルード川を越えてさらに南に延び、ゆるやかな上り斜面を利用して建設された王の大庭園「ヘザールジャリーブ」の入り口にまで達していた。通りの両側には王や大官たちの造営した庭園がたくさんあり、町の中の一大グリーンベルトを形成していた。



「パラダイス」のイメージを持つイタリア・ルネサンス期の庭が、壁に囲まれた「秘密の花園」であったことはよく知られた事実だが、この「パラダイス」の起源は古代のメソポタミアやペルシアに遡る。サファヴィー朝期の庭園も、古代以来の伝統を受け継ぎ、通常は壁に囲まれ中の様子は窺い知れなかった。しかし、この大通りに面した庭園の壁は、透かし彫り風に煉瓦を積み上げたもので、道行く人たちが通りの並木だけではなく、庭園の緑をも楽しめるように配慮されていた。



チャハールバーグ大通りの西側一帯は、アッバーサーハードと呼ばれる居住区だった。ここは元来、十七世紀の初めに、アッバース一世がアゼルバイジャンのタブリーズから多くの職人や技術者を強制的に移住させた際、これらの人たちを住まわせるために建設された地区だが、その後、王宮に近いこともあって宮廷関係者が多く住むようになった。



もう一つ、旧市街とザーヤンデルード川との問に位置するハージューも、アッバーサーバードと同様に、宮廷に関係した身分の高い人たちや、商売で成功した裕福な人たちが住む場所だった。インド人の大商人もその多くがこの地区に屋敷を構えていた。シャルダンによれば、オランダの町のように両側に高い並木の植わった広い運河が何本も流れるこの地区には、ほとんど貴顕ばかりが住み、目に入るのもほぼ、広大な庭園のある大きな屋敷に限られたという。細い路地や小さな家が多く、埃っぽい旧市街とは対照的な町並みが広がっていたことが分かる。



しかし、これら新市街の邸宅の多くが宮廷と密接な関係を持った人びとの住む場所だった、ということに留意しておかねばならない。王が都を遷したり、王朝自体が滅びたりすれば、この地域はすぐに人の住む場所ではなくなってしまうのである。そして、それはサファヴィー朝が滅亡した十八世紀前半以後に現実となった。町の人口が再び増加に転じる今世紀前半までの間に、住む人のなくなった新市街の大部分は農地に転用されていたのである。




アルメニア人居住区−ジョルファー



チャハールバーグ大通りが川を横切る地点には、三三のアーチが連なる優美な石橋が架けられた。「三十三橋」、または、建設者であるアッバース一世時代の将軍の名をとって「アッラーヴェルディー・ハーンの橋」とも呼ばれる。サファヴィー朝期の建築技術の粋を集めた傑作である。この橋を南に渡りそこから西に向かって少し歩くと、ジョルファーという地区に入る。アルメニア人キリスト教徒の居住区である。



ジョルファーとは、もともとオスマン朝との国境地帯に位置するコーカサスにあった町の名である。十七世紀の初めにこの町を含むアルメニア地方の住民は、アッバース一世の命でそっくりペルシア本土に移住させられた(一六〇四〜〇五年)。オスマン朝軍が攻め込んできても、食糧補給ができないように、国境地帯に荒れ地を作ること、また、ジョルファーの場合は、西方との絹貿易で巨利を得ていた豊かなこの町が、オスマン朝の支配下に入ることを王が恐れたことが強制移住の理由だといわれる。およそ三〇万から三五万人と伝えられる移住者の多くが、雪と寒さのために移動の途中で命を落としたという。あるアルメニア人詩人はこの悲劇を次のような詩に残している。



哀れなアルメニアの民よ。純真にして、助言も得られず
散り散りになり、腹を空かせ、喉を渇かせ、裸で、
ホラーサーンヘの囚われの道を行く。
汝らは数多くの苦難に耐え、麗しき故郷にとどまっていた。
今や、汝らは父や母の墓を捨て、家や教会も捨てようとしている。



イスファハーンに移ってきた旧ジョルファーの住民は、王から与えられたザーヤンデルード川の南の土地に住み着き、そこを新しくジョルファーと呼んだ。アッバース一世は、この新地区に家や教会を建て、アルメニア人が住みやすいように配慮するとともに、移住者に免税や資金援助など数々の特典を与え、彼らが故郷に帰らないように注意を払った。王室が独占販売権を握る絹の国際貿易を彼らに任せたのもアッバース一世だった、このため、間もなく新ジョルファーの商人たちは、以前にもましてめざましい成功を収めるようになり、この地区には大金持ちの商人たちの立派な邸宅が建ち並ぶようになった。



その後、一六五〇年代になると、ジョルファー以外の地区に住んでいたアルメニア人キリスト教徒も強制的にジョルファーに移され、アルメニア人キリスト教徒は例外なくジョルファーに住むようになった。アルメニア人キリスト教徒の「ゲットー」、ジョルファーの誕生である。



五〇年代にアルメニア人が全員ジョルファーに集められた最大の原因は、イスラーム教徒が市内にあるキリスト教徒経営の酒屋で酒を飲み、社会的な倫理の乱れが目立つようになったからだという。また、王宮地区に流れ込む運河が先にアルメニア人の住む地区を経由するため、彼らが酒器などを洗った「不浄な水」を王宮の人びとが使うようになっていたことも、強制移住の理由の一つに挙げられている。つまり、酒がアルメニア人を一ヵ所に集めた理由だというのである。



しかし、原則として禁じられていたとはいえ、オマル・ハイヤームの例を持ち出すまでもなく、ペルシア世界では古くから酒を飲むことは半ば公認されており、現にこの時代もシーラーズ産のワインは、インドやヨーロッパで上質のワインとして有名だった。また、当時の王のアッバース二世やスレイマーンがほとんど毎日酒浸りの状態だったこともよく知られている。建て前と本音を使い分けるのは、ペルシア世界に住む人たちの常道である。飲酒の禁がそれほど厳格に実施されたとは考えられない。この時の強制移住にも、公の理由以外に何か別の理由があったのだろう。



いずれにせよ、ごく少数のヨーロッパ人商人や修道士が、宮廷の特別の許可とともに川の北側のイスファハーン市内に居住を許されただけで、ほとんどのキリスト教徒がこのジョルファーに居住していたこと、ゾロアスター教徒もジョルファーの西側に独自の居住区を持っていたこと、したがってサファヴィー朝時代のイスファハーンでは、原則として信じる宗教によって人びとの住む場所が異なっていたことに注意しておこう。





書名
著者
出版社
出版年
定価
〈世界の歴史15〉成熟のイスラーム社会
ISBN: 4124034156
永田雄三
羽田正
東京・中央公論社 1998 本体2524


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