イスラームの生き方

イスラミックセンター編著


二、道徳の意義
5. 社会的責任


社会的な責任についてのイスラームの教えは、親切と思いやりに基づいています。ただ親切であれという訓戒は、特定の局面においては忘れられることも多いので、イスラームではさまざまな親切行為を強調してあり、さまざまな人間関係において権利と義務を明確にしているのです。



広範囲にわたる人間関係のなかで、私たちの第一の務めは自分の家族、つまり両親、夫婦および子供たちに対するものであり、次には他の親族、隣人、友人と知人、孤児と未亡人、困窮者、ムスリム同胞、全人類および動植物、資源、環境保存へと及ぶのであります。




a. 両親



イスラームの教えのなかで親に対する孝行は強く説かれており、それは信仰上重要な部分でもあります。



なんじの主が命ずる、


主だけを崇拝し、他の何者をも崇拝してはならぬ


そして両親に孝行であれ両親かまたそのいずれかがなんじの生存中に老齢に達しても


軽侮の語や荒い言葉を使ってはならぬ


ねんごろにやさしくせよ


敬愛の情をこめ、やさしく謙虚に翼を低くだれ


「主よ、幼少のころ親が私を愛育してくれたように


かれらに慈愛を与えたまえ」と祈って言え。


(聖クルアーン第一七草二三−二四節)



一人の男が預言者のもとに来て、「アッラーの使徒よ、私が一番面倒をみなくてはならないのは誰でしょうか」とたずねると、預言者は「それはお前の母である」と三度線りかえして言い、そして、「その次は父親、。そして近親者の順である」と答えました。




b. 夫婦および子供



アッラーは、男に対して自分の妻と子に必需品を与え、家庭内に宗教的雰囲気をかもしだし、と子の教育と幸福について責任をもつよう命じています。



女性は夫と子供たちの家庭内のことおよび子供の訓練についての責任を負っているのです。



相互の愛と信頼、二人の間の秘密を保つこと、互いの弱点を許し合うこと、愛情と思いやり、そして相手に対する親切心などが夫と妻の双方に課せられているのです。



子供は両親に対して協力的で、両親を尊敬し、従順でなくてはいけません。



男は女の擁護者(家長)である


それはアッラーが


一方を他よりも強くされ、かれらが己れの資財から費やすゆえである


それで貞節な女はアッラーの守護の下に夫の不在を守る。


(聖クルアーン第四章三四節)



かの女ら(妻たち)はなんじらの衣であり


なんじらはかの女たちの衣である。


(聖クルアーン第二章一八七節)



預言者ムハンマドは次のように言いました。「信者の中で最も完全な信仰をもつ者は、最良の地位をもち自分の家族に最も親切な者である」




c. 近親者



ムスリムが責任をもつ順序として、次にくるのが近親者であり、アッラーは血縁関係について、次のように言っています。



近親者に与えよ、また貧者や旅びとにも


だが粗末に浪費してはならぬ。


(聖クルアーン第一七章二六節)



かれらは何を慈善に使うべきかをなんじに間うであろう。


言え、


「何でも善いものを使え、両親と親族のため


孤児、貧者およびたび路にある者のために。


あなたがたのする善い行いは何でもアッラーが完全に知りたもう」


(聖クルアーン第二章二一五節)




d. 隣人



人間の性格に対しては、その隣人の評価こそ当を得ている場合が多いのです。隣人に対して親切であり、できるだけの援助を与えることはムスリムの義務であります。



ある人が預言者に、「アッラーの使徒よ、親切であったか否かはどうすればわかるのでしょう」とたずねましたが、預言者は、「あなたの隣人が、親切だったと言えば、あなたは親切であった。もし隣人があなたを不親切であると言うなら、あなたは本当に不親切なのだ」と答えました。また預言者は次のようにも言っています。



「そばにいる隣人が飢えているとき、自分だけ腹一ばい食べる者は信者ではない。またその行為によって隣人に不安をもたらすなら、その者は信仰をもたぬ」。




e. 孤児と未亡人



どの社会においても、孤児と未亡人は、保護と物資の供給を必要としています。たとえ未亡人が夫の思い出に忠実であらんと再婚をきらった場合でも、それでも再婚した方がよいのです。預言者ムハンマドは、「未亡人と孤児のために尽力する者は、アッラーの道で努力する者である」と説いています。



また、孤児を引取って自分の子同様に育てるのは近親者の責務ですが、近親者がいなかったり、あるいは何らかの理由で残された子供を引取らない場合には、他のムスリムまたはイスラームの団体ができるかぎりの思いやりをもって養育することが義務とされています。



またかれらは孤児についてなんじに間うであろう


言え、「かれらのため有利に取計らうのが最も良い


もし生活を共にするならなんじらは兄弟である」


だがアッラーは善意の管理者と悪事をなす者とを知りたもう…


(聖クルアーン第二章二二〇節)



預言者は、「近親の、あるいは他人の孤児を責任もって養育する者は、この私と共に天国に入るであろう」と言い、人さし指と中指を並べて見せたのです。




f. 困窮者



ザカート(喜捨)はイスラームの第三の柱であり、経済的余裕のあるムスリムすべてに課せられた義務です(イスラームセンター・ジャパン発行の入門シリーズ「ザカート」を参照下きい)。



ザカート以外にも、聖クルアーンとハディースの中で慈善がくりかえし命ぜられています。これは、困窮者を援助するためできることをするのがイスラームで教えられている重要で基本的な部分であることを強調しているのです。この教えを忠実に守っていた時代のイスラーム社会は大いに繁栄し、ザカート基金の分配に適当な困窮者がいなくて困った場合すらあったのです。



慈善行為は、物質的な援助か他の種類の供与かにかかわらず、寛大で親切な気持で行なわなくてはならず、恥かしめを伴ったり、相手に負担を与えたりしてはいけないのです。



アッラーの道のため己れの財産を使い


そのとき負担や屈辱の思いをさせぬ者


これらの者に対する報奨は主のみもとにある、


かれらには恐れもなく憂いもないであろう。


親切な言葉と寛容とは侮辱を伴う施しにまさる


アッラーは官有者・仁慈者である。


(聖クルアーン第二章二六二−二六三節)



信仰する者よ


なんじらの得たよい物と


われが大地からなんじらのため生産したものを与えよ


なんじら自身目をそむけずには受け取れぬような悪いものを


えらんで他人に与えてはならぬ


そしてアッラーは、一切不足なく満ち、


賛美されるべきであることを知れ。


(聖クルアーン第二章二六七節)



なんじらは


施しをあらわにしてもよいが


ひそかに貧者に与えればなんじらのためさらによい


それはなんじらの罪悪の一部を払い清めることであろう


アッラーはなんじらの行ないを熟知している。


(聖クルアーン第二章二七一節)



なんじらが施しに使うよいものはなんじら自身の魂のためであり


またアッラーの慈顔を求めるためのみそうせよ


使用した良いものは完全になんじらに返されよう


なんじらは不当に偶されることはない。


(聖クルアーン第二章二七二節)



なんじらは


好むものを喜捨せぬかぎり正義を全うし得ないであろう


なんじらが喜捨するどんな物でもアッラーは必ずそれを知りたもう。


(聖クルアーン第三章九二節)



負債者がもし窮境にあるならば、そのめどのつくまで待て


だが慈善のため、帳消しにして喜捨することが


なんじらのため最もよいことを知らざるや。


(聖クルアーン第二章二八○節)



預言者は、こう説いています。



「二人の間の争いを公正にさばくのは、慈善である。所有する動物で他人の荷物を運べば、それも慈善である。良い言葉も、礼拝に向う一歩一歩も、そして道路上の危険物をとりのぞくことも、やはり慈善である」。



預言者は、すべてのムスリムが慈善を行なうべきである、と言いましたが、無一物の者はどうすべきかとの問いに対して〔両手を使って働き、得た利益を使いなさい」と答えました。



「それができない場合は?」


「困っている人、悲嘆にくれている人を助けなさい」


「それでもできないときは?」


「そのときは、善いことをしなさい」


「善いことができないときは?」


「そのときは、悪いことをしないように。それも慈善である。」



これら聖クルアーンの句とハディースによって慈善の意味はきわめて広く、他人を益したり助けたりすることすべてが含まれるのを理解できるのです。




g. ムスリム同胞



ムスリム同士の関係は、きわめて重要な問題であります。というのは、世界中のムスリムがアッラーの教えを守り、主の喜びのため努力し、イスラームの目標に向かって助けあい、一つの共同体を形成しているからです。ムスリムはすべて兄弟姉妹であり、互いに家族の一員として親切と思いやりに満ちた態度で接しなくてはなりません。



信者は兄弟である。


(聖クルアーン第四九章一〇節)



なんじらは


アッラーのきずなにみなでしっかりとすがり分裂してはならぬ……


(聖クルアーン第三章一〇三節)



預言者ムハンマドは次のように述べています。



「全ムスリムは一つの身体のようなもので、目が痛めば全身が影響を受け、頭が痛めば、全身が影響を受ける」



「ムスリムは、他人に対して六つの良い行ないをしなくてはならない。すなわち、人に会ったら敬意を表して挨拶すること、招待に応じること、人がくしゃみをしたら「アッラーのご加護がありますように」と言うこと、病人を見舞うこと、葬儀に参列すること、そして自分の好むことを人にもほどこすことである」



「ムスリムは互いに兄弟であるから、他のムスリムを不当に扱ったり見すてたりはしない。同胞を助ければ、アッラーが自分を助ける。兄弟の心配事を解決してやれば、審判の日にアッラーが自分の心配事を取り除いてくれる。ムスリムの秘密をかくせば、アッラーが審判の日に自分の秘密をかくしてくれる」




h. 人類同胞



アッラーは、意志と行為によってのみ、人を評価します。出生、国籍、人種、金銭的成功、社会的地位などはアッラーにとって全く関係のないことなのです。私たちムスリムとしても、人間の作り出したこれらの差別や相違にとらわれることなく、公平と親切心とすべての人間に接するべきです。



人びとよ


われは一人の男と一人の女からなんじらを創り、種族と部族に分けた。


これはなんじらを互いに認識させるためである


アッラーのみもとで最も尊い者は


なんじらのうち最も主をおそれる者である


まことにアッラーは、全知者・通暁者である。


(聖クルアーン第四九章一三節)




i. 動物



親切と良い扱いは、人間だけでなく、動物にもさしのべなくてはなりません。預言者は動物を飢えさせたり、虐待したり、あるいは傷つけたりするのを固く禁じています。もちろんこのことは、できるだけ苦痛を与えず食用のため屠殺する動物、または人間に有害な蛇、サソリ、蝿、蚊その他を殺してはいけないとのことではありません。



地上の動物、あるいは双翼で飛ぶ鳥も


一つとしてなんじらと同じ衆生でないものはない。


(聖クルアーン第六章三八節)



預言者が教友たちと旅行中、一寸の間一人でよそに行きましたが、その間数友の一人が二匹の雛を連れた鳥をみつけ、その雛をつかまえてきました。親鳥はもちろん翼を拡げて怒り後を追ってきました。その時預言者が帰ってきて、子供を取ってかの女を苦しめたのは誰か?かの女に子供たちをかえしなさい、と叱りました。





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