アラブ人の本性とイフワーン運動の限界

ジョン・フィルビー著
岩永博、冨塚俊夫共訳




もちろん、ワッハーブ派の熱狂心のごく最近に見せた高揚は、一八世紀と一九世紀の先駆者のものと同様にやがて衰退することは明らかであった。衰退の原因は次の二つのうちいずれかであったろう。一つは、最初のワッハーブ帝国が効果的に征服できる限界を越えて膨張した結果、強い諸勢力に寄ってたかって反撃されるより前に、情熱の烙をかきたてる燃料が欠亡して、膨張しすぎた辺境から撤退せねばならぬ苦境に陥ったための志気の阻喪であり、他は現実に危機のないためか、一九世紀にみたような内部分裂かで、無限に精神の緊張を保ち得なくなった人間そのもの、特にベドウィンの、全くの能力の欠如である。しかし、二〇世紀冒頭の三〇年間に高揚し、ワッハーブ派信仰を復活させた熱情を冷却させたのは、この二つのいずれの要因によるものでもなかったと思える。この熱情は、完壁な民衆の指導者が、神の栄光とその時代の環境の現実的限界内で一帝国をつくるために育てあげ、慎重に利用したものであったが、熱情が慎重さの度を超え、王がその青春の全盛期に手作りしたものを崩壊させる脅威をもたらしたとき、同様な慎重さで清算したものである。彼がその生涯の危機に際して、熱 狂的ながら実際には忠誠な家臣たちの逆上心に対決して、嫌われさえする行動を厳然ととって、彼らを、王自ら形成し、またその当時から今日まで一片の領土たりとも失うこともなく維持した帝国内に引きとめたことは、確かに彼の幅のある偉大さを顕している。彼はたしかに祖先の万人が失敗した点で成功した。また彼の創出したアラビア帝国が、その後継者の手中で縮小すると考える理由は全くない。



彼の成功の秘密は、おそらく、自らが頗る長く統轄する運命を担った気紛れなバダウィン(*ベドウィン)および半バダウィン社会の真の性格を、祖先の人たちの誰よりもよく理解していたことにある。砂漠のアラブ人ならびに町や村(*定住民)のアラブ人も一様に斑気で無気力なことは、祖先の人々の経験で示されていた。しかし、この斑気と無気力さを中断させて、宗教的情緒をかきたて、それを自己の目的に転用した間奏劇が挿入されていたのである。実際彼は、熱狂的信仰の弘布が、一帝国の創立と、その帝国の永続化にとっての重要障害となる国内乱轢を打破することとの、二重の目的に役立つことを認識した最初の君主であった。そして、自国の領土の大きさが存立の合理的限界に達した頃には、王はアラブ人の部族制度を復活できないほど完全に粉砕し、また彼を勝利に導いた兵力と理念を大きな危険なしに解消することに成功していた。恐怖の的であったイフワーンとワッハーブという言葉は国内でここ約二〇年間ほとんど耳にしないし、今日では何かちらりと聞く程度に記憶されているにすぎない。



ついでに覚えておいてほしいのは、ナジドの厳格派は決して自らをワッハーブ教徒(ムハンマド・イブン・アブドゥル・ワッハーブの信奉者)と称していないことであり、それはヒジャーズの最初のイスラームの信奉者が自らマホメット教徒と称しなかったのと同じである。ワッハーブの語はもともと、反対派が相手の唯一神信仰の運動を指した侮蔑的綽名に用いたもので、信奉者たちが最終的勝利の後これを栄光の象徴として受け入れただけであり、恰も「賎しい老兵」という称呼が、極めて勇敢な兵士団によって第一世界大戦中から戦後にかけて使われるようになったのと同様である。両方の場合いずれも正しい信条の信奉者は自らを単にムスリム(*イスラーム教徒一、自らの信仰をイスラームと称し、ナジドの民衆はとくに自らハンバル派(すなわちイスラーム思想の四つの正統な学派の一つの始祖であるアハマド・イブン・ハンバルの学説の信奉者)と称した。しかし、彼らは歴史上ワッハーブ教徒として知られている、歴史上の「血の道程」の種々の段階で見た事件が教える印象は、この教徒の熱狂性が、間欠的に高揚している間は全く本物にみえるが、実際は表面だけの独善性にすぎないこと である。この表皮は小石と漆喰とで造られたごく普通の建物を被っているにすぎないので、一度堅い掩護外皮が敵の銃弾で貫通されるや否や、何回となく崩れ落ちて、外観も残らぬバラバラの廃墟と化したものである。



故王が一九一二年アルダーウィーヤでイフワーン運動を始めたとき、同種の何かが再び起こるであろうと広く予言されていた。新企画に使用された素材は見た限りでは同一であり、外観も同様であった。しかし、結果は、今日の安定した国家に見るように全く異なっている。今日の国家は砂漠というカーテンの後方で孤立していることに満足せず、異境の馴れぬ土地に来住したあらゆる種類と条件をもつ人間とが、寄り集まって生きている世界である。世界の政治的潮流は、第一次世界大戦の結果古い時代とは確実に変わってしまったが、その潮流は排他的狂信性を拡大させるのに役立つとはほとんど見えない。多分建築家は変化した条件を自分に有利に使うことには熟達しており、たしかに故王が絶好期を捉えてヒジャーズを征服したのは、彼の傑作であった。しかし、この征服は、それによって、ワッハーブ派の国庫を巡礼の収入で満たしたが、彼がアラビアに作り出した平和と、爾後の統治用に案出したイスラーム重視の計画とは、世界から欠陥があるとして非難を蒙っていた。彼は祖先が勝利と帝国形成のために行なったと同様に、都合の良い時に自分が呼び求めたフランケンシュタインを叩き潰し て、砂上の楼閣のような王国以上に強固な基盤をもつ新政権を建設するのに必要な素材を、他のものに求めたのであった。



一九三〇年にはまだ、新時代がそれ以前のものと著しく異なることを物語るものは何もなかった。ワッハーブ派の熱狂性が政策用具としては放棄されていたとしても、イスラームを重視する点、またアラビア的親切心の実践を望む万人が、イスラームの教える訓戒と義務を厳しく守ろうとする点には、些かの弛緩もみられなかった。ヒジャーズの征服で改善されたといっても、明らかに経済状態は壮大な再建や開発理念を抱かせうるものではなかった。海外諸国との新しい交流から生じる錯綜した政治は、慎重さを必要とさせ、殊に巡礼とか辺境の問題は、誤った措置で国の安定を乱すことのないように慎重に取り扱われた。しかし運命の女神は既にコーナーを曲り、最も甘いほほえみの一つを浮かべてサウジ。アラビアの生誕を祝福していた。





書名
著者
出版社
出版年
定価
サウジ・アラビア王朝史
ISBN: 4588021842
ジョン・フィルビー著
岩永博、冨塚俊夫訳
東京・法政大学出版局 1997 本体5700


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