イスラームへの入信

ムハンマド杉本著


私にとってイスラームとの出会いは、同じ学部生であるバングラデシュのムスリムとの交流がきっかけでした。私は交流を通じ、直接ではないけれども彼の会話や行動の狭間に、いかに我々が神のご意志にそうよう生きるべきかの教訓ないし人生訓を垣間見ることができました。そして、実際にバングラデシュを訪れることにより「生きるとは何か」を肌で感じたのです。滞在を通じて最も印象的であったのは,マスコミによってしばしば強調される悲惨さよりも人々の豊かな人間関係でした。「彼らはなぜ外国の、しかもムスリムではない私にこれほどまで親切であるのか?政治の腐敗、絶対的貧困,自然災害などの問題をかかえながら,なぜこんなに明るく生きていられるのか?」私は生きる力の大きさに圧倒され感動すると同時に親しみからくる人間らしさを感じました。


日本に帰国後、私はより一層人間関係の違いに直面しました。価値観を一変した私にとって日本人の人間関係は狭く表面的なものに思えてきたのです。親や友だちはカルチュアショックだとあしらいましたが、実は彼らは大切な何かを見つめる機会ないし心持ちに欠けていると私には思えてなりませんでした。


日本人はバングラデシュのような強い親族関係ではなく、小さな家族を社会的単位として生き、とりわけ現在では都市を中心に核家族が進行してきているようにその関係は希薄になりつつあるといえます。また、日本人の外国人に対する排他性は有名であり、事実,例えば留学生との接触はその機会の多さにもかかわらず非常に限られています。これが意味することは、日本人には異質の価値観とうまく接していくことが困難であり、こういった経験的蓄積が乏しい文化的、環境的背景で生きてきたということです。とりわけ、経済的には先進国であっても、宗教のあいまいな状態に顕著であるように思想ないし倫理の面では発展途上国であるといえます。


幸運にも、私は大学で文化人類学を専攻しているため、差別や偏見を超えて異文化に接することができました。イスラームに入信する際も、ムスリムになることで、より実践的にまた精神的に異質なものへの接し方を改めたいと思ったのです。そして将来、特にいわゆる第三世界と呼ばれている国の人々と兄弟愛という価値観のもとお互いに助け合うことができたらと思っています。ただし、だからといって私は決して立派な人格者になろうとしているのではありません。アッラー(謹んで称えます)に身を委ねることで自己の非力さを常に実感し、しばしば傲慢になりがちな性格を改めることが必要だと思ったのです。そして何事も自己の能力次第であるという自己中心主義的な考え方から離れ、アッラー(謹んで称えます)のお導きがあってこそ現在の自分があるという謙虚さが少なからず私に、また今日の日本人には必要だといえます。


最後に、非ムスリムの人々とりわけ私の家族や友人へ、信じるとはすべてを受け入れることであり、意図の大切さをうたったクルアーンの一節を紹介したいと思います。「本当にあなたは死者に聞かせることは出来ない。また聞こえぬ者に呼びかけても聞かせることは出来ない。(ことに)かれらが背を向けて引き取る時は。またあなたは見えない者を、迷いから導くことは出来ない。あなたはただわが印を信じるものたちに聞かせられるだけである。そうすればかれらは服従、帰依するであろう。」(第27 章、蟻:80,81)



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